安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自称福徳会員さんの質問1つ目

これから、以下の質問について、一つずつ書いていこうと思います。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

これについては、質問者の「自称福徳会員」さんから、解説文をコメントでかいていただきました。

質問1の解説
1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を出でて(修正)、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

親鸞会の教義:すべての人は三願転入して救われる。そのため救われていないすべての人は18願の救いを求めて19願で教えられている諸善の代表である財施や破邪顕正を一生懸命やりなさい。そうすればやがて20願に進み、18願で救われますよ。それが善知識方のお導きにより、親鸞聖人の通られた道であり、それを教えられたのが三願転入のご文ですよ。

異議:「18願の救いを求めて19願で教えられている諸善を行いなさい」という教えはない。親鸞聖人は双樹林下=体失往生を求めて諸善を行っていたと書かれていると解釈すべきである。これはまさしく、体失・不体失往生で破られた心である。
三願転入のご文の導入部は「善知識方のお導きにより、親鸞聖人は過去世も含めて長い間持っていた19願の心(諸善を行って19願で教えられている往生をしようとする心)を離れて、20願に進まさせていただいた」と解釈できる。つまり、三願転入のご文で今生において諸善をしなさいと進めているわけではない、ということです。
なお、私は親鸞聖人に善の勧めがないといっているのではありません。また、比叡の山での20年のご修行がまったくの無駄だったかというとそうとも思いません。仮に比叡の山での20年のご修行がなく、法然上人のご教導に会っていたとしたならば聖人が救われるのにもっと時間がかかっていたかもしれません。しかし、余計にかかった時間が1秒なのか1日なのか、1年なのかわかりません。聖人が9歳で出家されたとき、法然上人はすでに弥陀の救いを説いていたわけですが、仮に聖人が9歳で法然上人に出会われ、比叡山の修行がなかったとしても、救われていたと思いますし、それは29歳の春よりも早く救われていたと思います。
私が主張したいのは「18願の救いを求め、自己の現在の姿を見ていくことがより重要であり、『目標を設定し財施や破邪顕正の活動が足りないとか目標に届くとか届かないとか』と思って求道するのはレールからはずれていますよ」ということです。
それと「18願の救いを求めて19願で教えられている諸善を行いなさい」という教えは真宗にもないし、浄土宗にもないということです。

まず、三願転入のご文は、親鸞聖人が自ら救われた体験を告白されたものですが、当然、弥陀に救われたあとに、自らの求道を振り返ってかかれたものです。
親鸞聖人ご自身も、阿弥陀仏に救われる前に「自分は今19願にいる」「よーし20願にはいったぞ。あと少しで18願だ」と、自覚して、求道されたということではありません。

すべての人が通る道には違いありませんが、心の道であり、19願によって進まされたとか、20願の願力によって、ということは、救われて初めてわかることです。

しかし、救われた人は、必ず三願転入の道を通って救われるということは共通したことです。

そこで、自称福徳会員さんの質問について、親鸞会では

べての人は18願の救いを求めて19願で教えられている諸善の代表である財施や破邪顕正を一生懸命やりなさい。そうすればやがて20願に進み、18願で救われますよ。

と教えているということでしたので、調べてみました。
「こう聞いた、あぁ聞いた」では、人それぞれなので、「こんなことが知りたい4」を読んでみると以下のようにありました。

この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
 その体験を三願転入というのです。

19願、20願を通らなければならないとは、ありますが、善をしたらやがて20願に出れるとは書いてはありませんでした。

教義というのは、書かれたものか、本人に直接聞かねばわからないものです。本人に聞くということはなかなか難しいので、かかれたものを参照しました。

善をしたら救われるという教えは、おっしゃるとおり、浄土真宗の教義にはありません。

ただ、善をしなくていいというのも、「善をしないほうが信仰が進む」という考えなら、同じく間違いとなります。

本当によいことなら、大いにするべきです。
ただ、それを救いの足しにしたりしようとする心が問題なのです。
やった善根を往生と関係付けることはできません。

真宗の教えは、諸行往生ではなく、不体失往生、信心正因 称名報恩です。

最後に、三願転入の体験告白は、心の道程であり、体で、これだけ財施をしたとか、したから進んだという類のものではないということを追記しておきます。

もしこの記事を読まれている人がいたら考えてみてください。
19願で言われる「修諸功徳」(諸々の善をしなさい)、「廃悪修善」(悪をやめて、善をしなさい)の、善とはなんでしょうか。悪とはなんでしょうか。

弥陀の浄土に生まれたい、信心決定したいと、わが身の無常に驚いた人が、頭燃を灸う気持ちで、救われるために捨てようとする悪はなんでしょうか。救われるためにしようとする善とはなんでしょうか。

長くなりましたので、続きはまた明日にでも書きます。