安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われると言い聞かせなくても、救われます(頂いた質問)

前回のエントリーの補足です。元S会会員さんコメント有り難うございました。

(自分は助からないのではないかという)不安に目を向けない様にして本願の言葉を言い聞かせるしかないでしょうか?(頂いた質問)

救われないのではないかという不安は、誰しもあると思いますが、「救われないのではないかと思った」という心の行いで救われなくなるのではありません。
「救われると思って」も「思わなく」ても、心で思ったことが私を救う力があるのではなく、阿弥陀仏の本願に私を救う働きがあるのです。

阿弥陀仏の本願は、私を救う本願であるという点については「言い聞かせる」ものではありません。自分に言い聞かせるのではなく、阿弥陀仏の仰せを聞くと言うことです。

自分に言い聞かせるというと仮に図にしますと

阿弥陀仏「救うぞ」→自分A「救うぞ」→自分B「本当かしら?」
という感じになります。

こうなりますと、自分Aが自分Bに「必ず救う」と説法していることになります。
「必ず救う」は阿弥陀仏が私に言われることです、阿弥陀仏の説法を代わりに自分がしていると言うことになります。必ず救うという本願に、そのまま救われますので、「わかりました」と納得せねば救われないということはありません。

信じられない心を納得させたのが信心ではなく、必ず救うの本願をそのまま聞いたのが信心です。別のことばでいえば「私が信じた」のが信心ではなく、阿弥陀仏に救われたことを信心といいます。

まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。(御文章1帖目3通・猟漁

信じられない心を押さえつけよとか、止めよというのが浄土真宗の信心ではありません。阿弥陀仏にただ今救われたことを信心といいます。

本願は建てられる時から私を助けるためのものです(頂いた質問)

「自分は救われないのではないか」という不安がどうしても出てきて、気にしないように見ないように「必ず助ける」本願が成就しているのだから、と心に言い聞かせているのですが、時々不安でいっぱいになってしまいます。不安に目を向けないようにして本願の言葉を言い聞かせるしかないでしょうか?(頂いた質問)

回答します。
阿弥陀仏の本願は、私を救うための本願でありますから、阿弥陀仏の本願に私が救われると言うことはすでに組み込まれているということです。
阿弥陀仏を医者に喩え、私を病人、名号を薬に喩える話がありますが、「病気を治す薬がある」という言い方をする際にはいいのですが、譬えだけにあわないところがあります。
薬は、大勢いる病人(または病気)の為に作られますが、阿弥陀仏の本願は私一人のために建てられたものです。
まず、全ての人を救うという本願を建てられてから、私にそれを適応されたのではありません。法蔵菩薩が誓願を建てられるその時から、すでに私を助けるために願いを起こされたのです。ですから「私が救われないのではないか」というのは、本願が先にあり、自分はそこに合わせなければ救われないということになってしまいます。

先手の本願というのは、私を救うぞということをすでに誓われてる本願だということです。阿弥陀仏という仏がましますと言うことは、そのお姿が私を助ける仏がましますということです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

私を摂取して捨てられない仏だから、阿弥陀仏という仏がおられるのです。
往生に関しては、私が心配することではありません。
私が何かをしないと助けられない本願ではなく、最初から私を助けるためだけに建てられた本願ですから、私の方から何かをしなさいと要求はされません。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄後序

阿弥陀仏があり、本願を建てられて、名号ができた後に、それを私が信じて救われるのではなく、私がいるから五劫思惟された、本願を建てられた、名号になって下されたと言うことです。
救われないのではないかという心配はいりませんから、ただ今救われるのです。

「こうしたらいいよ」は他人事になってしまいますの追記(こすたんさんのコメント)

こすたんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「他人事になってしまう」とおっしゃっているのは阿弥陀仏に目が向かないというか、阿弥陀仏の救いを我が事と思わないということでしょうか。
阿弥陀仏の救いを我が事と思える人ほど、早く救われるということでしょうか。(こすたんさんのコメント)

回答します。
2010-1-13のエントリーについてのおたずねです。
「こうしたらいいよ、というアドバイスは他人事になってしまいます。」と書いたことについて、追記として書きます。
こう書いたのは、阿弥陀仏と私の間柄は、決して他人同士の関係ではないと言いたかったからです。苦しみ悩む人に、こうしたらよいよとアドバイスを送るだけではなく、私の苦しみは、阿弥陀仏の苦しみであり、自分の苦しみとなれば、自分が苦しむのと同じように悩んで下されるということです。
そして、共に悩むだけではなく、その苦しみを救って下されると言うことです。
マラソンや駅伝の声援で「頑張れー」というのは、代わりに走ることができないから、声を送るしかないからです。いわゆる、身代わりになれないことには、そうするより他ありません。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分

岸で溺れる私をみて、「可哀想だが、自分でなんとかしてもらうより他はないのだ」と思われれば、助けにこられません。往生に関しては、マラソンのように自分で走って
いくことができないのが私です。
岸で溺れる人をみて、まず飛び込んで助けようとされるのは、私に泳いで岸に渡る力が無いからです。加えて、苦しむ私は、阿弥陀仏にとって他人ではなく我が事なのです。
溺れる私を飛び込んで助けて下されると言うことは、私の代わりに泳いで下されるということです。

「往生は一人一人のしのぎ」と聞くと、何か孤独なことで、自分でなんとかしなければならないのではないかと思う人もありますが、一人一人に阿弥陀仏はよりそって、なんとか助けようと働きかけておられます。それは、横で見ているから自分でなんとかしなさいということではありません。お前に代わってかならず浄土へ連れて行くぞとのよびかけが、南無阿弥陀仏なのです。

阿弥陀仏は摂取して捨てられない働きそのものです(頂いた質問)

阿弥陀仏が実際にはたらいておられるということがよくわかりません(頂いた質問)

回答します。
阿弥陀仏の本願は、現在ただ今私を助けようという阿弥陀仏の願いでありお働きです。それが実際にそのように思えないという人の中には、阿弥陀仏の本願を思想のように思っている人もあります。しかし、現実に働かれる阿弥陀仏の救いは、思想のような一つの体系的にまとまった考えとは全くことなるものです。

観無量寿経の中で、お釈迦様が韋提希夫人に対して「苦悩を除く法を分別し解脱すべし」と仰ったときに、その声に応じて阿弥陀仏が現れられました。これは、阿弥陀仏が「苦悩を除く法」そのものであるということの現れです。
「阿弥陀仏」という仏様は、仏のさとりをひらかれた方というだけではなく、「ただ今救うぞ」とまた「摂取して捨てず」と招喚し続けておられる、働き続けておられるお働きそのものです。
それを親鸞聖人はご和讃にこのように言われています。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

阿弥陀というお名前がそのものが「おさめ、たすけ、すくう」という阿弥陀仏の働きかけそのものです。働いておられるらしいではなく、実際に働いておられるのが阿弥陀仏ですからただ今救われます。

「かなしむな」「なげかざれ」の教えなので、機をみて嘆くのではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏の働き一つで救われるのであれば、
「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」と自分の機をみて嘆いてもよいように思います。
よくないとはどういうことなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100110/1263128142#c1263134159

回答します。
よくないというのは、人にもよりますが機をみて嘆いているとだんだん法に目がむかなくなるからです。
仰るとおり南無阿弥陀仏の働き一つで救われるので、自分の機をどれだけ嘆いていても、それが原因で救われないということはありません。やはり、法に目がむかなくなってしまいがちであるということころが問題です。

親鸞聖人も、「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」という人に対して、南無阿弥陀仏がありますよとご和讃で教えておられます。

無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ(正像末和讃36

無明長夜の灯炬について、親鸞聖人は「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ」と教えておられます。
智慧の眼がくらいと悲しんでいるのは、自分の機をみて「こんな心では助からない」と嘆いているのです。

「こんな阿弥陀仏が思えないことでは」「こんな続かない心では」「こんな弱い心では」と思いますが、阿弥陀仏の本願は私を常に照らす大きなともしびなのです。また、灯炬が私を照らし、救って下さるのです。自分の目で見てくらいくらいと悲しむ必要はありません。
「先が見えない」、「いつ救われるのか」と暗い夜道を一人ゆくような寂しさを感じている人に言われているのです。先が見えない不安は、自分の目で予想が立たないことから来る不安です。どれだけ目をこらしても、暗い夜道は自分ではわかりません。南無阿弥陀仏の灯炬が照らして下されるのです。

阿弥陀仏の事が思えない浅ましい者とか、毎日毎日仏法のこと以外に心がかかる日暮らしをしていると悲しむ必要はありません。罪障はどれほど重くとも必ず救う力が阿弥陀仏の本願にあるのですから、生死大海を渡して下されるのです。
罪障が重いと嘆くのは、自分の心をみて、これでは浄土へわたれないと思う心です。本願の船は、重さは関係ありません。人間の背中に乗るならば、自分の重さは何キロで、相手の体格からするとちょっとこれは重いのではないかと計らいますが、大きな船にのるときに自分の重さを気にする人はありません。
重さを気にする人は、自分で泳いで渡るつもりのひとです。

常に法を仰ぎ、阿弥陀仏の本願力にただ今救われます。
大事なのは、機をみて嘆くことではなく法を仰ぐことです。

自己否定は、大慈悲に目が向かなくなります(bottom_lineさんのコメント)

年が変わり初のエントリーです。今年もよろしくお願いいたします。
bottom_lineさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
それは、ふつうの人がふつうに生きていくために人として自然な欲求であるお金・恋愛・結婚・仕事…、それらを彼は「相対の幸福」と命名し、「やがて自分を裏切るもの」と、それらを求める人や求める行為を否定した。
(中略)
そして自分で自分を悪しかできない最低の者と「自分で思い込もうと激しく努力した」

自己否定、自己否定、自己否定。
(中略)
どこで

私は

間違えたのか?

教えてください。(bottom_lineさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091230/1262179898#c1262530401

コメントを頂き、私も同じように思った時期があったことを思い出しました。そういう意味で、bottom_lineさんは、かつての私であり、私がbottom_lineさんと同じ立場になっても何の不思議も無かったと思います。
親鸞会で苦しんだことのある多くの方が苦しんだ原因は、bottom_lineさんが言われる理屈によって自己否定をしたことによるものだと思います。

どこで間違ったかと一言で言えば「煩悩を否定(または抑制)しなければ救われない」という親鸞会の間違った教義によるものです。
言葉を換えれば「善をしなければ信仰はすすまない」の犠牲になったということです。

これはKさんのコメントにいわれたような、部分と重なるところになりますが、こういうと「煩悩を否定しなければ救われない」とは親鸞会は言っていないと言うところだと思います。(これに関してはまた別エントリーで書きます)

またbottom_lineさんのような意見を親鸞会に言えば、聞き間違いだと言われるのだと思います。

阿弥陀仏の本願は、煩悩を否定しなければ救わないという本願ではありません。
生活上の普通に私たちが必要とするもの、食べたり、お金を求める欲望を抑えようにも抑えられないのが凡夫です。抑えるどころか常に燃えさかっているのが凡夫です。
煩悩を抑制することができる人は、聖道門の仏教で修行をされればよいのですが、私はそうではありません。
生きていく上では、罪も造り、煩悩もあるのが私です。それを否定していては、阿弥陀仏の慈悲がなくなってしまいます。煩悩具足の凡夫である私に、阿弥陀仏の大慈悲はかかっているのです。
煩悩具足の自己を否定すると言うことは、阿弥陀仏の大慈悲を否定することになります。「こんな自分はダメである」と言い続けることは、結果として「そんな自分を哀れに思われている大慈悲に目が向かなく」なります。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。(歎異抄1章

阿弥陀仏の本願は、老少善悪の人を差別されない本願です。弥陀をたのむ真実信心一つの救いです。それはなぜかといえば、罪悪深重、煩悩が燃えさかっているものを助けようとする願であるからです。
自己否定をするではなく、かりにダメな自分だと思っても自己にかけられた阿弥陀仏の大慈悲にどうか目を向けて下さい。自己を否定しても阿弥陀仏の救いとは何の関係もありません。bottom_lineさんを救おうという阿弥陀仏の大慈悲は現在働いていますから、まったく自分を否定する必要はありません。
煩悩熾盛の衆生を、哀れに思われただ今救うのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今救われて下さい。

阿弥陀仏の本願は「待つわ」ではない理由(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(1)阿弥陀仏は大変御苦労されて極楽浄土を建立され、またそこへ迎え入れる為に、私の往生の業である名号を完成して下され、正覚をかけて私に届けようと働き続けていると教えて頂きます。
また、自分の行いは救いには一切関係ないともお聞きします。
そうするとやはり「今も届くかもしれない。」とスタンバイして待っているしかないように思います。
待つのも計らいであると言われますが、待つのがどうしてよくないのか分かりません。どういけないのか教えて下さい。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091218/1261092307#c1261148972

待つのがどうして間違いかということについてのお尋ねです。
阿弥陀仏の救いを待つと言うことについて、「待つ」という言葉の意味からしますと、阿弥陀仏の救いが来るのを予想して、用意して備えることか、阿弥陀仏の反応や態度がわかるまで静観するということになります。

いずれにしろ、阿弥陀仏が現在ただ今は救うということではなく、今ではない少し未来に救うという考えです。または、阿弥陀仏は救って下されるのですが、現在は余所に向いておられるという心です。

待つということで思い出したのは、1982年に発売された「待つわ」(あみんのデビュー曲)という曲です。
曲の一節にこのような部分があります。

私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが 振り向いてくれなくても(待つわ より)

阿弥陀仏の救いを「待つわ」というと、私から念じないと阿弥陀仏は動いて下されない。または、阿弥陀仏が今は自分の方を向いて下さらないから待つということになります。
人で言えば、目の前にいるひとを待つということはありませんし、自分の方を向いている人に対して「たとえあなたが振り向いてくれなくても」とはいいません。

自分で準備をして待ち構えるという気持ちの「待つわ」ということになると、「自分で準備をするものがある」または「すでに必要な準備は自分ですませた」ということになります。
過去にも、現在にも、私の方で準備するものはありません。全て阿弥陀仏のお働きですから、本願力回向の救いです。

まとめますと、「待つ」というと、阿弥陀仏が私の方を向いておられない、または、自分ですでに救われる為の準備はそろえたということになるという点で間違いです。

阿弥陀仏は現在働いておられますので、待つのではなくて救われると言うことです。
もう一つ質問をいただいておりますが、次のエントリーで回答します。

参考

先手の本願は、先手の一手で勝負あり(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました、有り難うございました。

南無阿弥陀仏はどこにどのように在るのだろうと探したりしてしまいます。
あるいはどのようにして与えられ自分のものになるのだろうかと想像したりします。
先手の阿弥陀仏の御慈悲です。それを聞きたいと思います。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091206/1260053386#c1260717461

質問ではありませんが、先手のお慈悲ということについて、思うところを書きます。
阿弥陀仏の大慈悲心は、私の要請や、救助信号に応じて起こされたものではありません。

先手という言葉は、将棋で、先に指すのが先手、後から指すのが後手です。
将棋では、先手があり、次に後手があり、何手も勧めていくうちに、やがて勝負がつくわけですが、阿弥陀仏のお慈悲は、先手の一手で勝負がついてしまうところです。

先手を打たれたならば、あとは、勝負あったなのです。すでに勝負あった状態で、「まだ負けていない」「まだ打つ手はある」とか、「どうしたら負けられるんですか?」とあれこれ、自分で考えたり人に聞いたりするのが、阿弥陀仏の大慈悲を疑う心です。

先手の本願でもありますし、一手の本願です(一手の本願という言い方があるかどうかは知りません)

阿弥陀仏は石像でも木像でもありません(頂いた質問)

2009-11-12
分かるか分からないかで救いをはかるのが、仏智の不思議を疑うこと(頂いた質問)
問答

いつまでたっても助からないと,「自分だけ本願から除かれているのではないか」「私は助からないのではないか」「弥陀の本願,本当なのだろうか」という心が出てきますが,これらは疑情でしょうか。法に対する疑い,機に対する疑いでしょうか。「仏智疑う罪深し」の疑いでしょうか。(頂いた質問)

回答します。
お尋ねのように阿弥陀仏の救いに向かっていろいろとでてくる心は、ひろい意味で疑情といえます。
しかし、いろいろ出てくる心を、あれこれ詮索することは、それ自体が法に向かっていないので、「それは疑情だぞ」ということはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091112/1258033900

法に向かっていないとは?
また、この文章で言えば「信心」について「どのように心をもち、阿弥陀仏を何とようにたのむのか」ということについての答えです。
「どうすれば救われるのか」ということであって、「どうすれば自力が分かりますか」ということではありません。
自力の心の概念の定義づけにとらわれると、阿弥陀仏に救われる為なのか、自力を知るためなのか、混同してしまいます。
この部分がさっぱりわかりません(頂いた質問)

回答します。
法に向かっていないというのは、何に助けて頂くかと言えば、阿弥陀仏の本願力であるのに、阿弥陀仏の本願のこころに向かわず、自分のこころにばかり目が向いていることを書きました。

お尋ねのように、「これは疑情でしょうか?」という問いに対して、答えていないのではないかと感じられたのだと思います。
いろいろと出てこられた心について、これは疑情でしょうか?という問いは、大事な事ですが、それにとらわれると、「阿弥陀仏に救われるため」から、「自力がわかるため」に変わってしまいます。お尋ねのように混同してしまいます。

「阿弥陀仏にすくわれるには、まず自力がわからねばならない」
「どうすれば自力がわかるのだろう」
「私の心にあるはずだ」
このように自分のこころの姿ばかり問題にするのは、大前提として、阿弥陀仏が動いて下されない仏だと思っているということになります。

例えていいますと、「大魔神」のような阿弥陀仏だと思われているのではないかと思います。
「大魔神」とは、1966年公開の特撮時代劇映画ですが、簡単なストーリーを紹介しますと

舞台設定を戦国時代におき、悪人が陰謀をたくらみ、民衆が虐げられると、穏やかな表情の石像だった大魔神が劇中で復活・巨大化して動き出し、クライマックスで破壊的な力を発揮(wikipedia-大魔神)

(純粋な乙女の涙で大魔神は動き出します)
というものです。

この大魔神のように、ものすごい力はあっても、なにか助けて欲しいという願いを出したり、なにかきっかけがないとその力が発揮されないように思われているのだと思います。
阿弥陀仏は、本願を建てられてより、ずっと動きずくめです。私を助けようと働いておられる大慈悲心の仏です。
その阿弥陀仏を、石像にしてしまって、
「自力がわかれば、石像から生きた阿弥陀仏に復活して助けて下される」
「罪悪観が問い詰まれば(以下略)」
「もっと真剣になれば(以下略)」
「もっと善に励んだら(以下略)」
「もっと○○したら(以下略)」
と思うのは、反対です。

阿弥陀仏がなんとかと働いていおられるのに、私が石像のように反応せず動かないのです。

自力を探すのは、それが「わかった」ということを阿弥陀仏に差し出して、勝手に動かないと思っている阿弥陀仏を動かそうという心です。
阿弥陀仏は、現在も動いて、生きて働いておられますから、その阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

参考資料

本願通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏の本願どおりになる人」というところをもう少しお聞きしたいです。よろしくお願いします。

「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」私であり、
そういうものをこそ助ける阿弥陀仏の大慈悲であると
そう聞きますと、そうかそうなんだと思うのですが、その通り本願の通りになりません。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091203/1259792157#c1260022364

回答します。
「阿弥陀仏の本願どおりになる人」と書きましたのは、「阿弥陀仏が願われているとおりに救われた人」ということです。
しかし、これは、阿弥陀仏が願われたとおりになろうとしてなった人ではありません。阿弥陀仏は、「このような人になれ」と願っておられる仏ではないからです。阿弥陀仏は、「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」私を、何とか阿弥陀仏の浄土に生まれさせてやりたいと願っておられるのです。
阿弥陀仏は要求をしておられません。阿弥陀仏に救われる為に、「阿弥陀仏は大変なご苦労をされてきたのだから、それにお応えしなければ申し訳ない」という心は、何も要求されたり交換条件がない本願を、何か出すのが当然だと計らっているのです。
ただ救うという大慈悲心のままに救って下されるのが、阿弥陀仏の本願です。実際に働き、実際に救おうという大慈悲心ですから、ただの働きではありません。
どこかの慈悲のある方ということではなく、私自身に大慈悲をかけられているのです。

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば(教行信証行巻

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を大悲の願船といわれました。船というのは、私を浄土に渡して下される働きを喩えられたものですが、普通の船には心はありません。しかし、大悲の願船といわれるように、「大悲の願」そのものが船なのです。大慈悲心があり、私を助けようと願っている船ですから、私を助けて下されるのです。

色々な方が私にこころをかけて下さっているようで有り難いのですが、
申し訳ないことに私の方は一向に救われず、焦っているようでもあり逃げているようでもあります。
もう何を書いていいかよくわからないですし、書いてもどれだけ伝わるのか、またそれ以前に、書いたことが実際の心のどれだけを表せているかという疑問もあるのですが、がんばって書いています。口でだともっと言葉が少なくなってしまいますし。力が入らなくなってきた手で、何とかしがみ付き続けているような感じでしょうか。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091203/1259792157#c1260022364

言葉というのは全部を表せませんが、言葉にしなければわかりません。言葉にしていこうということが、自分の心を見つめ、打ち出すことになりますので、こうしてコメントをされたと言うことは、大変よいことだと思います。

本願の通りになろうなろうというのは、手でなんとかつかもうとするのとおなじです。
本願の通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい。
阿弥陀仏の大慈悲は、待ち構えているのではなく、私に向かって届いているのですから。

阿弥陀仏の大慈悲は、自己犠牲の精神ではありません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございます。

(中略)
自分が楽して生きれるならば、そこには誰か(自分を支えてくれている人、親や兄弟や友人や地域の人や先生や上司や部下や諸々の・・)の犠牲(御恩)があるのだと思います。
ただ助けたいというありがたいお話、そんな結構なお話は信じられない事です。
実際救われなければどうしようもないです。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

回答します。
阿弥陀仏の大慈悲とは、犠牲の心ではありません。
犠牲とは、有る目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげることをいいます。
阿弥陀仏の大慈悲心からすれば、大切なことは、私を助けることであって、それ以外のことはありません。犠牲と言うことであれば、阿弥陀仏にとって私を助けること以外に大事な事があるけれど、私を助けるためにそれを失って(犠牲にして)五劫思惟され、兆載永劫の修行をされたということになります。
ただ衆生を助けたいより他にないのが、仏心ですから。「仏心とは大慈悲これなり」といわれます。そんなことは世の中にないから「超世の悲願」と親鸞聖人もいわれるのです。
私を助けるための大変なご苦労をされたのが阿弥陀仏ですが、何かを犠牲にされた上のご苦労ではありません。私を助けるためのご苦労は、ご苦労とは思われないから大慈悲心なのです。なんとか浄土往生させてやりたい以外にありません。

この世の事でも、本当に心配するなら必ず行動となって表れるし、実行のない心配は嘘だと思います。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

阿弥陀仏が私を助けたいという願いは、ただの願いではありません。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻・往生論註引文

願いに基づく力があり、力をなりたたせる願が成就している。阿弥陀仏の本願は、実際の力(行動)とならずに無駄に終わるものでもなく、その力(行動)は私を助けることのないもの(虚設)でもありません。私を助けるという願いと力がまったく違いなく一致したところに成就したものが願力であり、他力なのです。これを願力成就といいます。
ですから、間違いなく私を救ってくだされるのです。阿弥陀仏の願力は、所信表明や、未来に向けての宣言ではありません。願いと働きが成就しているものです。

阿弥陀様が、本当にずっとずっと昔から心配して下さっているのなら、そして救う力があるのならば、私は救われるでしょう。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

はい、必ず救われます。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

摂取してすてずといわれたのは、逃げるものを追いかけて救い取られるということです。阿弥陀仏の救いを信じられないものを、決して見捨てられません。どこどこまでもそういうものを追いかけて救われるのです。
「摂取してすてられない」ことを、阿弥陀仏という名前のいわれであるといわれています。阿弥陀仏は、ずっと働き続けておられます。うそはありませんから、摂取不捨の真言ともいわれます。
実際にはたらいておられるから実際に救われます。

阿弥陀仏が救うと願われるから救われるということ(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私が出発点になるとか阿弥陀仏が出発点になるというのは
「自分が思う・思わない」ということとは別に何か違いがあるのでしょうか?
阿弥陀仏が出発点で回向される南無阿弥陀仏なのだから、だからどうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091201/1259623570#c1259682026

回答します。
「自分が思う・思わない」が、救いと関係有るとしますと、「自分が思う・思わない」を阿弥陀仏に回向して、その引き替えに阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向して下されるということになります。

こうなりますと、99%は阿弥陀仏の力ですが、あとの1%は、私が「思う・思わない」を足さないと、阿弥陀仏の願いが、願い通りに成らないということになります。
浄土往生の費用を、阿弥陀仏がほとんど出されるのですが、あと10円だけは私が出さねばならない、と言っているようなものです。

阿弥陀仏が出発点というのは、私があと10円出す必要はありません、ということです。阿弥陀仏は、あと10円出すだけで良いように本願を建てられたのではありません。往生については全部受け持ちますから救われて下さいという願です。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄3章

煩悩具足の私たちは、どのような行を自分で行ったとしても生死を離れることはできません。そこを哀れに思われ願いを起こされた阿弥陀仏の本当のお心は、私を仏にさせるためですから、阿弥陀仏の本願どおりになる人は、必ず往生することができると言われています。
無いものを出せとは言われません。「他力をたのめ」といわれるのです。

どうしても出さねば気が済まぬという方は、自信教人信の活動で大いに発揮されたらいいのです。阿弥陀仏の大慈悲は「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」私にかかっているのです。
その大慈悲心によって起こされたのが、「そのまま救う」という願いです。
「そのまま救うけど、少しだけ手助けして下さい」という願ではありません。
善人ぶる必要も、悪人ぶる必要もありません。賢人ぶる必要も、愚人ぶる必要もありません。
善人(悪人)のふりをした張り子の部分に阿弥陀仏の慈悲がかかっているのではありません。「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」所に阿弥陀仏の慈悲はかかっています。

阿弥陀仏が救うと願われて、働かれるから、救われるというのが、阿弥陀仏が出発点ということです。必ず、救われますから、ただ今救われて下さい。

「まず○○しなさい」の本願ではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>救われない原因を私にもってくるというのは、ある意味あっています
どのような意味であっているのでしょうか?

阿弥陀仏に向かうと何とか救われようとしてしまいますが、すべて阿弥陀仏のお力だからと思い直し救われようが救われまいが阿弥陀仏のされることに手出ししないようにしようとします。ですがこれですと、救われなくても阿弥陀仏次第となってそうかなとも思うのですが、ただ今の救いになりません。”必ずただ今”なのですよね?
やはり、阿弥陀仏の側だけではない何かがあるように思えてなりません。
往生浄土のために私がすべきできることは何もないのはよく分かります。しかし、ただ今の救いに遇えるかどうかはまた別なのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091118/1258505394#c1258556917

回答します。
救われない原因はどこにあるのか?という問いについては、自分が造った業が原因だと言えばそれは間違いになります。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず(教行信証信巻

「造罪の多少を論ぜず、修行の久近を論ぜず」ですから、私の善業・悪業そのものは関係有りません。

しかし、「救われなくても阿弥陀仏次第」となりますと、「自分が何もしないことによって救われよう」という考えになってしまいますので、それは間違いです。

阿弥陀仏の救いに手出しをするというのは、阿弥陀仏の必ず救うぞという仰せに対して先回りをしたり、救いに関して自分の持ち分を勝手に作り上げることを指していっています。
前提となっているのは、阿弥陀仏は常に私を救おうと働き続けておられると言うことです。現在ただ今も、私を助けようと喚びつづけておられるからただ今救われるのです。

何か原因があるのではというのは、コメントの内容からお答えしますと、「手出しさえしなければ良いだろう」と「手出しをしない」ことをしようとしているからです。それでは、私が先で、阿弥陀仏が回向されるのはその後になってしまいます。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃38

阿弥陀仏の本願は、苦しみ悩む私を助けるために、回向することを第一として名号を完成されたのです。
「まず与える」「まず差し向ける」「まず救う」のが、阿弥陀仏の御心です。
「まず○○しなさい」ではありません。

「まず与える」といわれるが、何を先にしておいたらよいか?というのが、阿弥陀仏の救いに先回りをしているのです。
行政の防災対策パンフレットに以前、「グラッときたら!まず火の始末」というのがありました。
「まず」とは、「第一に」という意味です。阿弥陀仏の救いには、「まず回向」というのが「回向を首としたまいて」ということです。
阿弥陀仏からの本願力回向以外に、何もないのです。

「私が○○だから救われない」のではありません(五十嵐さん、maryさんのコメントより)

五十嵐さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯なのですね。(五十嵐さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091117/1258409017#c1258474994

阿弥陀仏は何のために成仏されてより常に働き続けなのかといえば、私一人を助けんがためです。

コメントを読んで、思ったことを、maryさんのコメントを通してエントリーします。

生きている間に本願を信じて後生をおまかせできるものなら、したいと願っています。
縁は十分に揃えて頂いているので、私が疑い深くて救われがたいという事なんだと思います。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091115/1258243358#c1258380507

救われない原因を私にもってくるというのは、ある意味あっていますが、ある意味間違ってしまいます。
と言いますのは、私が救われると言うことについては、全部阿弥陀仏のお力によるものだからです。
「私が悪いから」「私が自分の心を正しさえすれば」「私が疑い深いから救われないのだ」となりますと、「私が疑いを晴らせば救われるのだ」となってしまいます。

聖人一流の章には、もろもろの雑行を投げすてて、一心に弥陀に帰命しなさいといわれています。

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通・聖人一流

「雑行をすてて」だけではなく、「一心に弥陀に帰命」といわれ、さらに往生浄土が定まるのは「不可思議の願力として、仏のかたより」であると言われています。

私が疑いを晴らしたら、その条件として往生が定まるのならば、「仏のかたより」ではなく、「私のかたより」ということになってしまいます。
「私が疑いを晴らさない限り救われないのだから、ここは私が頑張らねばならないところだ」と、なりますと、「不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定」と反対の方向にいってしまいます。

ここは私の持ち分というのは、往生浄土に関しては一つもありません。持ち分としてかかえこんでいるものが何一つないから、「仏のかたより往生は治定」といわれるのです。
自分だけを責めずに、一心に弥陀に帰命して下さい。阿弥陀仏は私のことだけにかかりきりなのですから、必ず阿弥陀仏にただ今救われます。

私から弥陀をたのむではありません2

前回のエントリーの追記の形でエントリーをします。
「弥陀をたのめ」ということについて、別の形でエントリーをします。
阿弥陀仏の方から、「弥陀をたのめ」といわれるのだということを前回かきました。私がお願いしてから、阿弥陀仏が助けて下さるのではありません。

発願廻向というは、如来すでに発願して衆生の行を廻施したまうの心なり(教行信証行巻)

と親鸞聖人はいわれています。
発願廻向というのは、阿弥陀如来が先に私たちを助けようという願をおこされて、その上で衆生の為に行を与えて下されるということです。

御文章に「たすけたまえ」とありますので、やはり自分でまず「助けて下さい」とお願いしなければならないのではないか?と思われる方もあるので、それについて続いて解説します。

一念に弥陀如来今度の後生たすけたまえとたのみもうさん人は(御文章5帖目2通・八万の法蔵)

これは、「たすけて下さい」と阿弥陀如来にお願いしている人はという意味ではありません。
先に書きましたように、「助ける」というのは、阿弥陀仏が先に思われることです。「阿弥陀仏が助けさせて下さい」とお願いしておられるのを受けて、「どうぞ助けて下さい」という意味です。

たとえて言うと、セールスマンがあまりに「この商品を置いて下さいお願いします」と熱心にたのむのだから、根負けした店の主人が「じゃあ、その商品おいていって下さい」というようなものです。

出発点は、阿弥陀仏の本願ですから「先手のご本願」ともいわれます。