安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「自分の心を詮索せず本願に向きなさいと以前からよく聞いておりますが、「本願に向く」ということが漠然としすぎてわかりません。」(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2014/08/26 09:58  
自分の心を詮索せず本願に向きなさいと以前からよく聞いておりますが、「本願に向く」ということが漠然としすぎてわかりません。本願に向くとはどういうことなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140825/1408958644#c1409014715

本願に向くとは、御一代記聞書にある言い方でいうと「その篭を水につけよ」ということです。

(88)
一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。(御一代記聞書88_ 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/qx05Cf

アドウチさんのコメントでいう「自分の心を詮索」することは、上記の御一代記聞書では自分の心を篭に例えてその篭の中に水が入らないことを悩んでいるようなものとして言われています。それは、法話を聞いたり、念仏したり、お聖教を拝読するのは一生懸命自分の心という篭に水を注いでいるつもりでいるからです。ですから、本願という水が自分の心という篭にどれだけ入ったかを確認したくなります。もし、篭が水であふれた状態になれば本願を聞いたということにしているのだと思います。だから、自分の心という篭に水がない状態を御一代記聞書の人は悩んでいます。確かに私もそのように思っていた時があります。しかし、それは法をわがものとしようと試みているだけなのであり、法そのものに形がない以上は所有はできません。

法がどれだけ所有できたかと自分の心の詮索をしても、それによっていつの日か心が法で満たされることはありません。


では本願に向かうことを御一代記聞書ではどう言われているかというと「その篭を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」と言われています。
本願に向かうとは、どこか特定の方角を向くことではありません。それは、法は私を取り囲み常に私に向かって働いて下さることを知ることです。なぜなら、阿弥陀仏に向くと言っても、自分の心の中に、あるいは法話の場所に阿弥陀仏を探しても、どこか特定の場所におられる阿弥陀仏ではないからです。


阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となってこの私に向かって常に働いて下さっています。それは私の半径数メートルというようなものではありません。私がどこにいても、いつでも南無阿弥陀仏が働いてくださるのは、この私のいる世界で南無阿弥陀仏のない場所が存在しないからです。

どこかにおられるのではなく、この私のいる世界に遍くそのお働きがあり、しかも私一人にむかってよびかけられている南無阿弥陀仏と聞くということが、「本願に向かう」と言うことです。

「阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました」(頂いた質問)

阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました。
インターネットで見つけた冗談で、キリスト教徒の人が、「絶対、神は猫だ」と言っているのを見たことがあります。理由は「いつも祈りは無視されるから」だそうです。
私も似たような気分で、念仏を称えるのがしんどいのであまり称えません。
助からない理由は、
(1)阿弥陀仏があまり親切ではない。
(2)阿弥陀仏がいない。
(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。
のどれかだと思います。
(頂いた質問)

これについては

(1)阿弥陀仏があまり親切ではない

というのはありません。私を救うために五劫思惟されたのですから、「意地悪」や「トラップ」または「試練を与える」ということはありません。また、この五劫思惟は、私に負担をかけないようにされたものです。形はどうあれなにかの「行」を要求する場合、全ての人を救うことはできません。


そのことを、選択本願念仏集に以下のように書かれています。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

http://goo.gl/BR39s

南無阿弥陀仏(念仏)で救うという阿弥陀仏の本願は「一切に通ず」ものです。しかし、それ以外の「行」を救いの条件にすると「諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず」となります。あらゆる人に適応できないものとなります。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

仏像を作ったり、塔を建てたりするのが阿弥陀仏の救いの条件であるのなら、そんなことができる金持ちはとても少なく、そこまでの経済力がない人の方がずっと多いのです。もし「造像起塔」が本願であるならば、多くの人が往生の望みを断たれてしまいます。また、智慧があり才能に恵まれた人を救う本願であるならば、そうでない者の方が多いのでそれらの人は往生の望みを断たれてしまいます。

全ての人を救う為の南無阿弥陀仏となられたので、そういう意味で阿弥陀仏は大変親切な方であす。「あまり親切ではない」ということはありません。


次に

(2)阿弥陀仏がいない。

は、ありません。なぜなら、本願がすでに成就して法蔵菩薩から阿弥陀仏となっておられるからです。その阿弥陀仏南無阿弥陀仏となって私に称えさせておられるのですから、ただ今の私が念仏をすること自体が、阿弥陀仏がおられる証拠となります。


最後に

(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。

とある、これが正解です。

阿弥陀仏は私を救うための仏でありますから、「親切ではない」ということがありません。また、すでに本願は成就しているのですから「阿弥陀仏がいない」ということもありません。

では「何かが行き違っている」の「何か」について考えてみます。


その「何か」とは「阿弥陀仏は親切である」「阿弥陀仏はおられる」にもかかわらず「私はなぜ救われないのか」という疑問がについてです。


この「阿弥陀仏が親切である」については、質問者の方が全面的に信用されていないのではないかと思います。必ず救うと呼びかけられる南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。

阿弥陀仏の本願は「縁のある、ほんの一部の人間との約束」ですか?(リクガメさんのコメント)

リクガメさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
リクガメさんのコメントに、maryさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

いつも拝見しています。阿弥陀仏の救いは「今」なのでしょうか。私の姉は生まれてすぐに死にました。おばあさんも、もう認知症で何もわかりません。また、この度の地震で存命の内に救われた人はどれだけいたのでしょうか。皆、阿弥陀仏の存在さえ知らなかったのではないでしょうか。子供のころ、犬を見て、幸せになって欲しいと思ったことがありました。私のペットのカメも十方衆生に入っているのですよね。十方衆生とは「われわれは人間だから→すべての人」と、どこかで聞いたことがあります。人間だからといっても今生で救われないということは、十方衆生とはいっても、救われずに死んでゆく現実があることから、縁のある、ほんの一部の人間との約束で、ほとんどの人は含まれていないような気がしてなりません(阿弥陀仏がわからないという意味では私も動物と同じで、十方衆生とはいわれてるが、現実的には救われる対象には入っていないような気がします)。死んだ後、遠い遠い未来の「今」の救いの人もあり、いつかは十方衆生は救われるというのなら理解はできますが・・・・。最近こんなことばかり考えています。(リクガメさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110404/1301864832#c1302003975

いくつかお尋ね頂きましたので、順番に書いていきます。

阿弥陀仏の救いは「今」なのでしょうか。」

阿弥陀仏の救いは、いつでも今です。この文章を読まれているときが「今」です。未来のいつか「イマ」という時系列上のポイントがあるのではありません。
次に頂いた「この度の地震で存命の内に救われた人はどれだけいたのでしょうか。」については、それは分かりません。亡くなられた方も、地震津波で命が助かった方も、何とか阿弥陀仏の本願を聞いて浄土往生して頂きたいと思っています。

「縁のある、ほんの一部の人間との約束で、ほとんどの人は含まれていないような気がしてなりません」

阿弥陀仏の本願は、一部の人間との約束ではありません。なぜなら「無縁の慈悲」をもって起こされた本願だからです。ペットのカメも十方衆生にもちろん入ります。

仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈*1をもつてもろもろの衆生を摂す。(観無量寿経・浄土真宗聖典(註釈版)P102法蔵館真宗聖典P146.下段終わりから3行目)

観無量寿経には、仏心とは大慈悲のことだといわれています。大慈悲とは無縁の慈悲のことです。

人間の起こす慈悲は、仏様の大慈悲に対して小慈悲、無縁の慈悲に対して衆生縁の慈悲といわれます。
人間の考える慈悲は、縁のある人に対して起こすものです。身内や知人、今回の震災を報道で知ったとき「同じ人間として」との思いから起こす慈悲です。

それに対して阿弥陀仏大慈悲は、無縁の慈悲です。知っているとか知っていないとか、善人とか悪人とか、○○だからという差別を一切つけられない慈悲です。人間だから動物だからと言う差別もありません。

私の目線から、人間の慈悲の観点から阿弥陀仏の本願を考えると次のような疑問が起きてきます。

  • なぜ助けて下さるのか分からない
    • 法蔵菩薩となって本願を建てられたときに、私のことを知っておられたのだろうか?
    • 十方衆生といわれても、私のことは知らなかったはずだ。私は阿弥陀仏が仏になられた十劫の昔のことは分からない。
    • 私自身も阿弥陀仏のことを知らなかったのに、どうして阿弥陀仏は助けて下さると呼びかけておられるのか?

ちょっと考えて見ると、仏様に向かって言えるような立派な善も、菩提心も起こしたことがない私に対してどうして本願を起こされたのかが分からなくなると思います。
そこで「ほんの一部の人間との約束」ではないかと疑問を起こされるのも、当然だと思います。

私から見れば、阿弥陀仏は縁もゆかりもない方です。しかし、どうしてだか分からないけれども慈悲を起こされて救って下さるので阿弥陀仏大慈悲は「無縁の慈悲」なのです。

仏法を聞いている人は縁があり、仏法聞いていない人は縁がないと、人間の目から見た縁の有無で助かるとか助からないというのは、間違いです。
人間の目で見てわかる縁の有無で慈悲があったり無かったりするのは、小慈悲であり衆生縁の慈悲です。

「全く知らない、顔も見たことがない」「助けて欲しいとも思わない」と私が考えていたとしても、「汝を助ける」と大慈悲を起こして下さるのが阿弥陀仏大慈悲です。無縁の慈悲です。

人間世界では、縁がないと助けられないことが多いです。しかし、阿弥陀仏大慈悲は無縁の慈悲です。私の方からみて縁がないとしか思えなくても、法蔵菩薩として願を起こされるときから大慈悲をかけて下さっているのです。

まとめ

この無縁の慈悲が大慈悲心ですから、「もう少し縁が深まってから助かる」ということはありません。「縁のある一部の人を助ける本願」ではありません。
実感として、阿弥陀仏がどれだけ遠くに感じられても、南無阿弥陀仏が他の人に向かっているように感じられても、今の私をただ今救って下さるのが南無阿弥陀仏です。

*1:無縁の慈・・平等にして無差別な仏の大慈

阿弥陀仏は本願に報いてあらわれた報仏(前回の補足)

前回のエントリー(「仏さまなんていない」という人にどう話をしたらよいでしょうか?(畑さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))の補足です。
阿弥陀仏という仏様は、私を助けるために名告られた仏様です。そのため、阿弥陀仏のことを善導大師は「報仏」といわれ、親鸞聖人も教行信証に引文されています。

西方の安楽阿弥陀仏は、これ報仏報土なり(教行信証真仏土巻より・善導大師「玄義分」引文・浄土真宗聖典(註釈版)P364法蔵館真宗聖典P429

報仏とは、報身の仏と言うことです。報身の「報」は酬報のことです。酬報とは、菩薩の位の時に(因位)建てた願と、その願に応じて行った修行に報いたということです。因願酬報といいます。その菩薩の時に建てた願と行に報いて現れた仏を報身といいます。
阿弥陀仏は、法蔵菩薩が私を何とかして助けたいと五劫思惟の願を建てられ、兆載永劫の行をされた結果、願行に報いて現れた仏様です。
そのことを、上記の文章のあとにこういわれています。

いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身*1なり。(同上)

ですから「阿弥陀仏」は、私を救う仏様であって、私と無関係な仏様ではありません。私がなにかしなければ近づけない仏様でもありません。私が何かしない限り救って下さらない仏様でもありません。

往生のためには何も出来るものを持ち合わせていない私を助けるための本願を建てられて、行をされた結果として阿弥陀仏となられました。もし、阿弥陀仏が何かをしないと助けてくれない仏様だという人がいたら、もとの本願が違うということになります。

設計図が右とあるのに、できあがったものが左ということはありません。そのまま救う本願だから、そのまま救う仏様となって現れて下さったのが阿弥陀仏です。
苦しむ私をほおって置かれるはずはありませんし、救うために何か条件をつけられることは絶対にありません。

追記 19願の報身仏や、20願の報身仏はいない 2011/04/04 10:26更新

今日のエントリーに追記で書いておきます。
今日のエントリーで

いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身なり。(同上)

のご文を引用しました。
酬因とは、因願酬報ということで、法蔵菩薩の起こされた48願をまとめておさめれた第18願に報いてあらわれた仏身のことです。

「善をしなければ助からない」という第19願の報仏である阿弥陀仏や、「念仏を称えたら助ける」という第20願の報仏である阿弥陀仏はおられないということです。

*1:酬因の身・・四十八願を総摂した第十八願にむくいてあらわれた仏身。

「仏さまなんていない」という人にどう話をしたらよいでしょうか?(畑さんのコメントより)

畑さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

地震で苦しむ人々がいるのをみて仏さまがいるのなら、こんな人こそ救ってくださるのが当然じゃないの。
あんなに苦しんで死んでいく人がいるのは、仏さまなんていない証拠」という人がいます。
このような人に阿弥陀さまのことをなんと話したらよいものでしょうか。(畑さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110402/1301692003#c1301746778

「仏さまなどいない」と考えておられる方に、どう話をするかということで考えて見ました。

今回の地震で亡くなられた方や、家族を亡くされた方、家を失った方、不便な生活を続けられている方を報道で見ると、私も大変心が痛みます。相手の方が地震被害の当事者かどうかはわかりませんが、そういう状況に対して、自分が何も出来ないことを悲しまれているのかも知れません。
「自分でも何かしようと思うのだから、救う力のある仏さまなら何かしてくれるはずだ、何もしてくれないのは仏さまがいない証拠だ」という主張だと思います。


何の話をするかと言えば、阿弥陀仏とはどういう仏様なのかを話をするのがよいかと思います。仏法の話をすると言っても、それ以外に話をすることはありません。

阿弥陀仏は、私を助けるために現れて下さった仏様です。「阿弥陀」という名前は、「あなたを助けます」と名告られた名前です。
その「あなたを助けます」という名告りは、どこから来たかと言えば、大慈悲の本願からでてきたものです。仏様の目からご覧になると、私は母に対する一人子のように、常に可愛く苦しんでいるとなれば何とか救ってやりたいという存在なのです。

二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。ゆゑにわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。(教行信証行巻より・源信僧都『往生要集』引文【64】浄土真宗聖典(註釈版)P184

阿弥陀仏が私をご覧になるのは「一子のごとし」です。「極大慈悲母」と阿弥陀仏のことを言われています。


大慈悲があるからこそ、「あなたを助けます」という願いをもたれ、願っただけでなく実際に私を助けるために働いておられます。それは、目には見えませんが、常に「南無阿弥陀仏」と名告られて私の口から出て下さっています。

仏様はいないのではなく、私の目に見えないだけです。
常に働いて私を救って下さる証拠が、この南無阿弥陀仏です。
「一子のごとし」ですから、一人一人に阿弥陀仏南無阿弥陀仏となって「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。」と呼びかけておられます。特別な人だけでなく、一人一人に呼びかけておられます。

畑さんに、また畑さんの相手の方にも呼びかけておられる証拠が南無阿弥陀仏です。

相手の方がこの話を聞いてどう思われるかは分かりませんが、私が畑さんと同じ立場であったならばどう話すかを考えて見ました。

私が救われたことを一番喜ばれるのは阿弥陀仏です(ねこさんのコメント)

ねこさんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。

親鸞聖人は「獲信見敬大慶喜」(正信偈)とか、 「ここを以て、極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり」(教行信証信巻)とか、 「無上の信心を獲れば、すなわち大慶喜を得」(文類聚鈔) と仰っていますが、信心を頂くと大きな喜びの心が起きるのではないでしょうか。(ねこさんのコメント)

喜びはおきます。ただ、喜べるような尊い菩薩になるのではありません。
凡夫の身の上からは、阿弥陀仏に助けていただく浄土を生きている間に間の当たりにすることはできません。見るような知恵がないからです。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり(歎異抄9章)

救われても喜ばないような凡夫と知られた上で、喜ばない凡夫のまま助けてくださる阿弥陀仏の本願を喜んでいるのです。

大きな喜びとは、「何かを得た」喜びではなく、阿弥陀仏の本願のかたじけなさよという喜びです。阿弥陀仏大慈悲心が有難いという心です。

また、私が浄土往生する身に救われて、一番喜ばれるのは、私ではなく阿弥陀仏なのです。私が「本願が有難いな」と喜んでいるよりも、ずっとずっと大きく喜ばれるのが阿弥陀仏です。

阿弥陀仏に救われないと駄目でしょうか?(WTさんのコメント)

WTさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

そもそも人は生まれてきたからには、阿弥陀仏に救われないと駄目なのでしょうか。
阿弥陀仏の本願を知らずに死んでいくことは、いけないことなのでしょうか。
かわいそうなことなのでしょうか。
救われている人と救われていない人は、天と地ほどの差があることになるのでしょうか。
0点か100点かとも言えるのでしょうか。(WTさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100915/1284543361#c1284608818

質問が複数になっているので、段落を分けて書きます。

阿弥陀仏に救われないことは、ダメなこと?いけないこと?について

阿弥陀仏の本願に救われないとか、知らずに死んで行くことは、ダメとか、いけないことというものではありません。もったいないことです。折角阿弥陀仏が本願を建てられ、私を救おうとされているのですから、救われないことは実にもったいないことです。


救われている人と救われていない人は、天と地ほどの差がある?

何も差はありません。
阿弥陀仏に救われる前も凡夫なら、救われた後も凡夫です。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文・註釈版聖典P693

欲も多く、怒り、はらだち、そねみ、ねたむこころが多くひまないのは、信前も信後も変わりません。「水火二河のたとへにあらはれたり」とありますように、二河白道の譬えで、阿弥陀仏の呼び声を聞いて、旅人が本願の白道を歩むようになっても、水の河、火の河は何もかわりません。同じように煩悩は何も変わりません。変わらないと言うことは、凡夫という点では何も変わっていないということです。
偉くなったわけでも、賢くなったわけでもありません。
ですから「どうだ!」と威張る必要もないのです。


0点か100点かとも言える?

0点とか100点といったテストの点数のような評価があるのではありません。
未信の人は、ダメな人(0点)で、救われた人は偉い人(100点)ということはありません。
救われても、救われていなくても、私という者は0点なのです。
ただ、そんなものを0点だからダメ、100点にしてやろうという阿弥陀仏ではありません。0点なら0点のまま救ってみせるというのが阿弥陀仏の本願です。
自分に自信がもてようが、もてまいが、阿弥陀仏はそんなことを気にされません。ただただ私を浄土に往生させてやりたいの願いしか有りません。

尊いとか、素晴らしいという言葉は、私につくのではなく、阿弥陀仏に向けられる言葉です。私はただ、助けられる側であって、偉いとかダメという価値判断はそこでは関係ありません。衆生かわいい、衆生かわいいが阿弥陀仏の願心です。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

阿弥陀仏の大きな声が私に常に呼びかけられている(RMさんのコメントより)

RMさんより、コメントを頂きました。有り難うございました。

「私を助けようとされている南無阿弥陀仏の大きな大きな声が、私に常に呼びかかけておられる」と、表現してもいのでしょうか。(RMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100913/1284363836#c1284429684

そのように表現されてもよいと思います。
親鸞聖人ご和讃にも、呼びかけておられると表現されているところがあります。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃53・註釈版聖典P609

大願の船に乗られて、阿弥陀仏が生死の海に浮かびつつ、私を呼び続けて乗せて下さると仰っています。

大きな声という言い方で言えば、その大きな声はずっとずっと昔から、現在ただ今も絶え間なく呼び続けておられると言うことです。
呼び声を待つのではなく、すでに呼び続けられている「ただちに来たれ」の呼び声を疑いなく聞いて下さい。必ずただ今救われます。

そのまま聞くといっても雲をつかむようです(山本さんのコメント)

山本さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
エントリーが遅くなり申し訳ございませんでした。

そのまま素直に受け取るとは、雲をつかむような感じです。(山本さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100825/1282728048#c1282875372

雲をつかむような感じというのは、私もそのように思っておりましたのでよく分かります。
阿弥陀仏とか、信心とか、称名と聞いても、私の側には何か実感できる確かなものがないからです。
それは、私が浄土往生する働きが最初から、最後まで阿弥陀仏のお仕事だからです。

「是名正定之業順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、仏の願にしたがふがゆゑにと申す文なり。(一念多念証文)

その阿弥陀仏の本願ひとつに私を浄土往生させる働きがあります。それに私の方で自力の計らいを差し挟むと、その働きが私の上に現れないのです。そのため、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるといわれています。往生浄土を決定する因・働きのことを正定の業と言われています。

信心といっても、阿弥陀仏の本願のお働きを聞いて疑いないことですから、私の働きはどこにもありません。
雲をつかむように思われるのは、実体があるはずなのにという思いが強いからではないかと思います。私の側には、最初からなにもありません。有りませんので、阿弥陀仏のお力一つでただ今救われるのです。

わたしを、わがひとり子とみられるのが阿弥陀仏(でんさんのコメントより)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

平生業成と聞くと「今生(一生の間)をかけて」と思いがちですが、即ち、現在の一念なのですね。
何としても私達を救いたいから、一念で救う願を成就されたのですね。
この私はいつでも救いの対象であるわけですね。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100812/1281613227#c1281650541

仰るとおりで、平生の救いというのは、一生かけてどうにかできれば万々歳というものではありません。現在ただ今の私を救う本願です。
仏様の目から見れば、現在ただ今の私が救うべき状態の者だと言うことです。

私は阿弥陀仏からみれば、救うべき相手ですが、一般にいう医者と患者のようの関係とは違います。多くの人にとっての一人の救い主ではなく、一人にとっての一人の救い主です。
阿弥陀仏大慈悲を、一子地と親鸞聖人はいわれています。

平等心をうるときを 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし(浄土和讃92・註釈版聖典P573

一子地については、左訓として

三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本)

と仰っています。

ひとり子といえば、一般では「自分の血肉をわけた我が子」とか「わが命」という人ももあります。
阿弥陀仏にしてみれば、私は、阿弥陀仏の命であり、自分の血肉を分けたもののように見ておられると言うことです。
だからこそ、なにかの手段を講じることができる人や、ある一定基準を満たした人でないと救わないというような本願ではありません。
阿弥陀仏にとって、私こそが本当のお慈悲のお目当てなのです。育てて立派にしたり、成長してから救うような能力は私にはありません。だから、ただ今そのまま救って下さるのです。

ただ今救う本願(平生業成)の根拠(YYさんのコメント)

YYさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏は現在ただ今救って下さる」といつもお聞きして
おりますが、「ただ今救う」という御聖教上の根拠を知りたいのですが。
本願文の設我得仏十法衆生〜だけでは、解らないのです。(YYさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100811/1281513141#c1281536917

阿弥陀仏はただ今救って下されるというのは、別の言葉で言えば平生業成ということです。

よく読まれている御文章では以下の部分になります。

さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(御文章1帖目2通・出家発心・註釈版聖典P1085)

経典上では、本願成就文の即得往生住不退転がそれにあたります。また、曇鸞大師の往生論註では「一念発起入正定之聚」ともいわれています。
いずれも、臨終ではなく、平生の一念に往生が定まり不退転に住すると言われています。

親鸞聖人ご自身のお言葉では、「平生」というお言葉はありませんが、臨終に対して尋常というお言葉を使われて教えられています。

「願力摂得往生」といふは、大願業力摂取して往生を得しむといへるこころなり。すでに尋常のとき信楽をえたる人といふなり、臨終のときはじめて信楽決定して摂取にあづかるものにはあらず。ひごろ、かの心光に摂護せられまゐらせたるゆゑに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆゑに、臨終のときにあらず、かねて尋常のときよりつねに摂護して捨てたまはざれば摂得往生と申すなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P657

阿弥陀仏の18願の救いは、臨終の救いではありません。臨終ではなく尋常の時(平生の時)信楽をえて、正定聚に住するものです。
一生涯の善根の積み重ねで往生が決まるというのは、臨終業成であって、阿弥陀仏の18願の救いではありません。

平生と言っても、私が生きているただ今のことであり、昨日のことでも明日のことでもありません。現在ただ今が平生です。
私が今と思えるただ今が平生です。過去でも未来でもなく、ただ今呼びかけられる阿弥陀仏の仰せを聞いて救われるのですから、ただ今救われます。

どちらが悪いかではなく、順番の問題です(shinjiさんのコメント)

shinjiさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今の自分の心は、

阿弥陀仏を慕う気持ちで聞かせていただいていますが、目に見えないし耳に聞こえないから救われるまでわからないな・・・という気持ち

・今日とも知れない命なので急がなければならない、早く救われたいという気持ち

・何年も某会で聞いていましたが、周りの人に褒められたいという気持ちしかなく、今まで阿弥陀仏のことをおろそかしてきて申し訳ない気持ち
(shinjiさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100529/1275094944#c1275887139

ご自分の心を打ち出して頂き有り難うございました。
阿弥陀仏は、確かに目には見えません。しかし、耳で今まで本願の心については聞いて来られたと思います。また、文字で書かれたものを目にしてこられたと思います。
文字にすれば、「必ずただ今救うぞ」というものです。
それ以外の何か、人間の声ではない不思議な声がこの耳に聞こえてくるのではありません。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。(一念多念証文

本願をききて疑う心がないことを「聞」といわれますが、最初の「本願をききて」という部分について、ここで何か不思議な音が聞こえるということではありません。
そういうものを聞いたことがないので「聞いていない」と言われるのでしたら違います。
お釈迦様が説かれ、また歴代の善知識方が伝えてゆかれた本願は、お釈迦様や善知識方の言葉であらわされています。その言葉を聞いて疑いないのが「聞」ですから、すでに耳で「きいて」おられると思います。ただ、疑う心があるということです。
疑う心があるという点で「聞」ではないといういみで「聞いて」いないのです。

今日とも知れない命と思う心や、阿弥陀仏の事をおろそかにしてきて申し訳ない気持ちはとても大事な心です。
阿弥陀仏は、おろそかにしてきたことに腹を立てておられるのではありません。それよりも、無常の身ですから、早く弥陀をたのめと願っておられるのです。
悩んでいるのは、shinjiさんだけではありません。阿弥陀仏もなんとかと願っておられます。

どっちが悪いかではなく、どっちが先かという問題です。
阿弥陀仏が願われているのが先なのです。「助かりたい」の自分の都合は後回しです。先に阿弥陀仏のただ今救うぞの願いを聞いて下さい。
必ずただ今救われます。

阿弥陀仏は来られるのではなく、おられるのです(頂いた質問)

阿弥陀仏が飛び込んできて下されると思っていますが、なかなか飛び込んで来てくださいません。(頂いた質問)

阿弥陀仏が飛び込んで来て下されるというのは、振り返ってそのように表現される方があっても、絵像や木像に描かれたような阿弥陀仏が、目の前にドーンと現れられることもなければ、そのような仏様が私の体内にドーンと入って来られるということではありません。
阿弥陀仏という仏様について、親鸞聖人は、「この如来は光明なり」といわれています。

この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。(一念多念証文

この如来というのは、阿弥陀如来のことですが、阿弥陀如来は光明であるといわれています。それは、阿弥陀仏という仏様から光明がピカーッと放たれているということでは有りません。阿弥陀如来は光明そのものであるということです。
私を助けようという智恵の働きそのものが、阿弥陀如来であり、南無阿弥陀仏なのです。
ですから、絵像や木像のような形をした阿弥陀仏が、十方微塵世界をものすごいスピードで駆け回っておられるのではありません。光の国から僕らのためにやってきたあのヒーロー*1とは違うのです。(分からない方は参照先をご覧下さい)

光明が、十方微塵世界にみちみちているから、無辺光仏ともいわれています。そのことを、天親菩薩は尽十方無礙光如来ともいわれているのです。
遙か、かなたからドーンとやってこられるのではなく、現在働いておられる光明が、阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏です。
来られるのではなく、おられるのが南無阿弥陀仏であり、阿弥陀仏です。
だからこそ、どこにいても、私がどんな心であっても、ただ今救われます。

*1:

真実の証は、阿弥陀仏の行と信からあらわれたもの(さとるさんのコメント)

さとるさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。エントリーが遅くなりすみませんでした。

では親鸞聖人は、
「利他円満の妙位」に即いていたわけではなく、
「無上涅槃の極果」のさとりを得られていたのでもない、
ということでしょうか?

御己証(自証)の「証」は、教行信証の証巻とは別のことなのでしょうか?(さとるさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100222/1266844508#c1267415842

親鸞聖人ご自身は、教行信証を書かれている時点、生きておられるときに「利他円満の名位」についておられたわけでも、「無上涅槃の極果」のさとりをえられていたのでもありません。

お尋ねにあった教行信証証巻は、真実の証を書かれたもので、親鸞聖人の体験記ではありません。真実の証とは、阿弥陀仏の証のことです。阿弥陀仏の行と信を因として、得られた結果としての証のことを書かれています。

お尋ねの通り「自証」と「真実の証」は、誰の証か?という点で異なります。
証の証というところの、仏の証は、巻末にかかれているように

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。(教行信証証巻の末)

願力の回向によるものです。そのなか11願の解説をされたものです。
その結果こうなった私について書かれた者では無く、そのようにして下さる願力の回向について書かれたものです。

「まだ」救われないのか?は阿弥陀仏の本願を後手にしているから(Bさんのコメント)

Bさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「私は」どうして救われないのか?という質問だと「救われます」と答えられそうですので、私はどうして「まだ」救われないのか?と言い換えます。(Bさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100202/1265115798#c1265163185

回答します。
結論から言いますと、先手の阿弥陀仏の本願を聞いておられないからです。
阿弥陀仏の本願を、「まだ」という言葉であらわすのは、自分はすでに救われようと思っている、救いを請求しているのに返事が「まだ」来ないという言葉です。

阿弥陀仏の本願は、先手の本願であり、私は後手になるのです。
「まだ」という言葉は、阿弥陀仏の本願に先立って、私が先手を打ち、救いを祈願請求する心です。
人から物を貰おうとするときは、「(まだ貰えないが)どうしたら貰えるだろうか?」「(まだ手に入らないが)どうしたら手に入るだろうか」と、自分が先になり、それにはどうしたらよいだろうか?と「か?」が後に必ずつきます。
その場合は、相手の返事を聞くまでは安心ができません。お金の貸し借りでも、どうしても人から借りなければならないときは、金融機関でも個人でも「どうかお金を貸してくれませんか?」と、いう願い頼みは、相手が「貸します」と返事しない限り、「貸してくれるだろうか?」の疑いが晴れません。

阿弥陀仏の救いは、「祈願請求」するものではありません。「まだか、まだか」というのは、阿弥陀仏の救いを祈願請求するものだと思われているのではないかと思います。
阿弥陀仏の救いは、祈願請求するものではなく、「投託信用」ともいわれますが、あてたよりにし、南無阿弥陀仏の仰せにしたがい、南無阿弥陀仏にまかせるものです。

自分が先手で祈願請求する場合は、相手の返事があるまでは疑いが晴れません。
それに対して、相手にまかせる場合は、相手が先手になります。

例えば、相手から何かお土産を頂くような場合は、相手が先手で「これは○○へ行ったお土産です、どうぞ食べて下さい」と差し出します。あげましょうが先手の時は、「どうかもらえないでしょうか?」という疑いはありません。
あげましょうの先手が聞こえたときが、頂きますと相手の申し出に従うのです。

阿弥陀仏の本願も、「ただ今救うぞ」の先手が聞こえたときが「聞即信の一念」です。助けられるばかりなりと、南無阿弥陀仏があてになるのです。

これは、先手後手ということのたとえですが、阿弥陀仏の本願と私はどちらが先手かということが、今回の質問の答えになります。

先手の本願と聞けば、「まだですか?」ということはないという回答になります。
私が先手と聞けば、「まだですか?」と、阿弥陀仏の返事を待ち続けても疑いは晴れません。「経巻口なし木像もの云わず」といった人もありますが、私を先手にして返事を待って疑いを晴らそうというのでは、いつまでも疑いは晴れません。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃53

阿弥陀仏の方から、生死の海に沈んでいる私にむかって、「ただ今救うぞ」と先手で呼びかけて弥陀の大願の船に乗せて下されるのです。
呼びかけて下さる本願が、先手ですから、まだですか?と願い求め、向こうの返事を聞いてからそれから定まる往生ではありません。

ただ今救うと先手ではたらかれる南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われて下さい。