安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞とは、無名無実に聞くことではありません(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

 いつも教えて戴いているように現在救われようという気持ちでやっております。これは皆、視覚での行ですが、聴聞に極まるとか聴聞が大事と聞くとやはり聴覚での行が大切なのかと思ってしまいます。(それじゃ、耳の聞こえない人はどうなるんだという疑問も出てきますが)(MMAさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100214/1266098661#c1266227026

聴聞に極まると言われたのは、何を聞くかと言えば、「聞其名号」と、南無阿弥陀仏を聞くことを言います。

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。(御文章1帖目15通・宗名当流世間

ただ無名無実に聞くのではありませんと言われているのは、実質のともなわないことではないということです。実質のともなわないというのは、必ず救うという南無阿弥陀仏のとおりに救われないということです。
聞其名号とは、南無阿弥陀仏の通りに救われる事をいいます。

ですから、目で文字を読んでも、耳で聞いても、それが「無名無実」では、見ていない、聞いていないと言うことです。
南無阿弥陀仏は「文字」でもないですし、「音」でもありません。阿弥陀仏の私を助けようという願力のお働きそのものなのです。ですから、耳に音声で聞こえるとか、視覚情報で入ってくるものでもなく、私へ私へと働いて下される南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏の名号をたのめば、必ず阿弥陀仏が助けて下されるようになっております。聞きなさいとは、たのめということです。聴覚や視覚のことではありません。

努力の前に救われるのが大事(頂いた質問)

救われる為に「何かしなければ」と考えるのは間違いと聞きましたが、果たして無努力で良いのだろうか、との疑問が起きてきます。怠け者ながら、何らかの実践項目を教えてもらいたい気持ちがあります。(頂いた質問)

私が阿弥陀仏の浄土に往生する働きは、すべて阿弥陀仏がなされることであって、私が「何かをする」という部分はありません。
ただ、「無努力」と、弥陀をたのむ、または、弥陀まかせは違います。

「努力しないように」努力すれば、それも努力にはいります。
何をしたらよいのですかという問いに対しては、阿弥陀仏の本願を聞いて下さいというのが答えです。
聞くというのは、阿弥陀仏の本願に救われる事です。
阿弥陀仏は、私の努力を求めてはおられません。私が阿弥陀仏に救われる事を願われています。

これについては、追記をまた書きます。

後生が気にかかるかどうかは、気にかけなくてもよいことです(頂いた質問)

いろいろなお聖教や仏教書を読んでいますが、自分の後生はなかなか気になりません。
煩悩にいつも振り回されて、阿弥陀様の声が聞こえません(頂いた質問)

お聖教や、仏教書に書かれてあることは、後生を気にせよということではありません。阿弥陀仏に救われなさいということです。

されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。(御文章5帖目9通・安心の一義

他力の信心をうるといっても、これは全て南無阿弥陀仏の六字のこころです。一切のお聖教といっても、南無阿弥陀仏の六字を信じさせ、阿弥陀仏に救われる為に書かれたものです。
後生に驚きを立たせるものでもなければ、日頃煩悩に振り回されている自分を落ち着かせてくれる、精神安定剤というか煩悩抑制装置ではありません。

こんな煩悩に振り回されていては、阿弥陀仏の声を聞くことはできないと思われる気持ちはよくわかります。しかし、「煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」でありますから、煩悩が燃えさかっているから助からないということではありません。
火事場で救助されるひとが、この火を自分で消してから助けてもらおうと思わないのと同じで、煩悩の火を自分で消して助かるのではありません。

お聖教には南無阿弥陀仏の六字のこころが教えられています。
南無阿弥陀仏の六字のこころとは、上記の御文章の前にはこう教えられています。

これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。(御文章5帖目9通・安心の一義)

往生に関してはすべて南無阿弥陀仏のお働きです。南無とたのむ者を阿弥陀仏が助けるという道理ですから、南無阿弥陀仏というお姿が、私たちが平等に助かる姿なのです。

阿弥陀仏の声とは、阿弥陀仏の私を助けるという名のりですから、南無阿弥陀仏の事です。私を助けようと働きかけておられますから、私の煩悩や後生がどれほど心にかかっているかという自分の心の状態によらず、平等に救われるのです。

昨日から私の住むところでは、雪がつもりはじめました。積雪が10センチを越え、20センチを越えると、どんな庭も真っ白です。人の手が入らず荒れ果てた空き家の庭にも、しっかり手入れのされた庭にも雪は平等に降り積もります。
荒れ果てた庭には雪が積もらないからと、いろいろな石をどけたり、草を抜いたり、花を植える人はありません。

降り積もる雪が降る場所に差別がないように、阿弥陀仏の救いはどんな人も差別をされません。自分の心の庭を気にかけるより、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて下さい。

本願を聞くとは、本願に救われること(頂いた質問)

知識の言葉を通してしか、阿弥陀仏の御心を聞かせていただくことはできないのだから、阿弥陀仏の本願を聞いて救われるには、やはり知識の言葉を真剣に聞くよりほかにないのではないでしょうか?(頂いた質問)

回答します。
阿弥陀仏の本願を聞いて下さいというのは、「仏法は聴聞に極まる」の通りで、阿弥陀仏の救いは「聞其名号」して救われる教えです。
そこで「聞く」というのは、「何かを聞く」というイメージがどうしても強いのですが、意味から言えば「救われる」ということです。
「何かを聞く」と考えると、静かな部屋で耳をじっと澄ませていれば聞こえてくるように思われますが、そうではありません。
「聞け」というのは、阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の喚び声を聞くのであって、別の言い方で言いますと、「阿弥陀仏の直ちに来たれ」の仰せの通りに救われることです。

では、知識の言葉は何かと言えば、二河白道の譬えの東の岸に立つ人はどう言っているかと言いますと、

東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。(教行信証信巻より

ただこの道(南無阿弥陀仏の白道)を行きなさい。必ず死の難はないし、止まっていれば死んでしまうぞと、東の岸の人は勧めます。
善知識の言葉といっても、それは「阿弥陀仏の本願そのもの」ではなく、「阿弥陀仏に救われなさい」と言っているに過ぎません。そのことから言えば、どれだけ知識の「言葉そのもの」をどれだけ聞いても、それは聞いたことにはなりません。
「ただ決定してこの道を尋ねて行け」と聞けば、それは知識の言葉を良く聞けということにはなりません。直ちに阿弥陀仏に救われなさいということです。

阿弥陀仏の呼ぶ声を聞きなさい、阿弥陀仏の直ちに救うという本願を聞けということです。阿弥陀仏に救われなさいということです。

雲をつかむようなものを聞くのではなく、実際に阿弥陀仏に救われなさいということなのです。どんな善知識方も、私の話を聞きなさいとはいわれません、本願を聞きなさいと勧められます。
阿弥陀仏を疑うから知識の言葉に縋るのです。
「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」すがるべきは阿弥陀仏ですから、阿弥陀仏に向かって阿弥陀仏に救われて下さい。

阿弥陀仏が回向されるのは切実な心ではありません(頂いた質問)

「たのむ人を助ける」という事ですが、たのむ心のない人はどうしようもないという事でしょうか?
助かりたいという心もないような人が、どうして助かるでしょうか?
助かりたいという切実な心を起こして下さるという事でしょうか?(頂いた質問)

回答します。
たのむ心のない私たちだから、たのむ心は阿弥陀仏があたえてくださるものです。

一 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。(御一代記聞書

親鸞聖人のご和讃に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」というのは、阿弥陀仏の方から、たのむこころも、尊く有り難いと念仏するこころも、みな与えてくださるから、こうしたらああしたらと計らって念仏称えるのは、自力であるから嫌われるのだと仰いました。

どうしたら救われるのだろうかという「切実な心」は、自分でこしらえないと救われないというものではありません。そういう心がなければならないというのは、信心をつかもうとする心ですし、そうできると思う心です。

「切実な心」や「燃え立つ心」がないから、自分は助からないと思われる方もありますが、そうではありません。「切実な心」や「燃え立つ心」を回向すると阿弥陀仏はいわれていません。「真実信心の称名は 弥陀回向の法」と言われるように、阿弥陀仏をたのむ心、念仏申す心を差し向けてくださるのです。

まずは「切実な心を与えてから」その次に○○を与えて、というような、小出しにされる阿弥陀仏ではありません。南無阿弥陀仏をそのまま与えようとされるので、大慈悲心なのです。
阿弥陀仏の大慈悲によって、回向される南無阿弥陀仏に救われるか救われないかであって、切実な心になるかならないかではありません。
ただ今阿弥陀仏に救われますから、ただ今救われて下さい。

正しく理解することと、救いについて(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

あてにならない自分の心を頼りにして生きているから、不安なのだと思います。
本願を聞いて、その文面どうりに受け取れなくて、自分の思いで本願を理解していますが、その間違った思いを正して、本願通りに理解できたならば、救われるでしょうか?
正しく理解すること、と救いは どんな関係でしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091007/1254879629#c1255084730

 
回答します。
本願通りに理解できたら救われるのではありません。
また、正しく理解することによって、救われるのでもありません。

正しく理解をしないと救われないと言うことになると、仏教の学問をしない者は救われないということになります。御文章で言えば、5帖目2通・八万の法蔵には、「本願を信じる」ことが大事であると教えられています。

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。されば聖人(親鸞)の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。(御文章5帖目2通

ここで仏教の教義を正しく理解している人を、八万の法蔵を知るといわれています。ここで後世を知らなければ愚者といわれる、「後世」とは、その後半にいわれている「一念の信心のいはれ」です。
決して、後生がわかった、わからない、ということでもなければ、後生がわかるために、まず善をしましょうとかいうことでもありません。一念の信心のいわれを知りなさいということです。

ですから、御文章の中に親鸞聖人のお言葉として、「すべてのひとは、弥陀の本願を信じなければ(一念の信心のいわれを知らなければ)、決してたすかると言うことはない」と言われています。

では、「一念の信心のいわれを知る」ことが、イコール正しく理解することなのかと思われると思いますが、それは違います。「一念の信心のいわれ」は、凡夫の頭で「理解」はできないものです。「不可思議の信楽」でありますから、私の頭で理解できるものではありません。

違った理解を正すと言うことで言えば、「理解すれば助かる」という思いを捨てて、阿弥陀仏の御心を知ると言うことです。別の言い方をすれば「正しく理解できない者でも救う本願である」ということです、「疑い深い者でも救う本願である」と、知ることです。

ただ今救うと言うことは、正しく理解できたら救うのでもなく、疑い深い者が素直な者にして救うということではありません。「こんな者は助からないだろう」という者が救われるのです。

名号を聞くとはどういうことか(maryさんのコメント)

前回のエントリーの続きです。
関連して、maryさんからもコメントを頂きました。

Kさんが24日に回答してもらった質問は、私もお尋ねしたかった内容そのものでしたので、質問して下さいましてありがとうございました。
結局、「名号を受け取りなさい」ということだと思うのですが、どうやって受け取ればいいのか、名号を聞くとはどういう状態か、どういう事なのか、よくわかりません。
目にも見えず、形のないものをどうやって受け取ればいいのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253968720

回答します。

「助かるか助からないかが問題」とは、コメントに書かれたように、「名号を受け取るかどうか」ということです。
そこで、「どうやって受け取ればよいのか」と問題になると思います。
方法、手段ということは、私たちで用意することならば、自力回向ということになるので、今回は、名号を聞くとはどういう事かについて書きます。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)

阿弥陀仏が私をどんなものと見て、どのような本願を建てられ、その結果どのような名号を完成されたかということを聞くことであり、南無阿弥陀仏を頂いて疑心がないのが聞くということだといわれています。

受け取るという言い方についてお尋ねでしたので、別の言い方をすると、南無阿弥陀仏という救いの働きによって救われることです。

南無阿弥陀仏によって救われたこと、真実信心を獲得したことを聞いたといいます。

考えるとは何を考えるのか?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏は私を助けることができるのかできないのか」ということを考えるのでしょうか?
「唯除五逆罪誹謗正法」だから自分は除かれているのかということでしょうか。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253929065

回答します。

自分自身が信心獲得をする際に、方法手段を考えるのか、救いそのものをもとめるのかという問題です。

「聞思して遅慮することなかれ」(教行信証総序)
と親鸞聖人がいわれるように、いろいろと考えている間に無常を迎えていてはなりませんが、真実信心を求める上で考えるということはとても大事なことです。

「阿弥陀仏は私を助けることができるのかできないのか」については、法の能力についてあれこれ考えるということではありません。
私からいえば、助かるか助からないかということです。

「唯除五逆罪誹謗正法」についても、自分が謗法を造っているかいないかによって、除かれるか除かれないかも変わります。自分は実際どうなのかということが大事です。

本日のエントリーについては、明日、続き*1を書きますのでよろしくお願いいたします。

聴聞とは何を聞くことなのか?(頂いた質問)

しばらく更新が滞っておりました。

聴聞が大事と聞きますが、何を聞いたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

回答します。
仏法を真剣に聞くことはとても大事な事です。しかし、真剣に聞くと聞いても、とにかく覚えるほど集中して聞けばよいのかと思われるかも知れません。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)

親鸞聖人は、「聞」というのは、阿弥陀仏がどういうことで本願を建てられ、どのように私たちを救われるようになったのかを聞いて疑心有ること無いことだといわれます。
すく
そう聞くと、「仏願の生起本末」という演題の説法を聞くことかというと、そうではありません。
もう少し具体的にいうと、阿弥陀仏の御心を聞くということです。
私たちは、真実信心を求める立場で、自分のことを出発点にどうしても物事を考えてしまいます。
例えば、「どういう心になったら救われるのか」
「もっと真剣にならねば救われないのではないか」
「なにか大きな心境の変化が起きなければ救われないのではないか」などです。

いずれも、「私が」こうなったら救われるという話です。または、「私が」こういう手段を講じたら救われるという、手段についての話です。

阿弥陀仏の本願は、短い言葉で言えば「私を助ける」為の本願です。助ける阿弥陀仏の立場からいえば、「助けられるか、助けられないか」が最も大事な問題になります。
「私中心」ではなく、救う阿弥陀仏の立場から、阿弥陀仏の御心を聞くということが、「仏願の生起本末を聞く」ということです。

私中心で、阿弥陀仏の本願に向かいますと、どうしても「では、どのようになったら(何をしたら)助けて下さるのか」という手段が問題になります。
しかし、助ける阿弥陀仏の立場でいえば、私がどういう手段を講じているかといことは問題ではなく、私を助けられるか、助けられないかという本来の目的が果たせるかどうかが問題になります。

「助けられるかどうか」が問題になる阿弥陀仏に対して、手段を問題にする私では、心が一つにならないのです。一心にならないということです。

「利他の信楽うるひとは、願に相応するゆえに」と親鸞聖人もいわれるように、阿弥陀仏の本願に救われる私からいえば、願に相応することが大事なのです。

「どういうようになったら阿弥陀仏は助けて下さるのか」という手段が問題の自分中心の考えを捨てて、「助けられるか助けられないか」という阿弥陀仏の本願の御心の立場で、阿弥陀仏の願心を聞くということが、「仏願の生起本末を聞く」ということです。

「どうなったら助かるか」ではなく、「助かるか助からないか」を問題にするということなのです。
聞くとは、「聞其名号」と阿弥陀仏の作られた名号を受け取るということです。ただ今阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜るかどうかが問題です。それが聴聞ということです。
ただ今、南無阿弥陀仏を聞いて救われて下さい。

ただ今救われなさいが、釈尊、親鸞聖人の勧めです(Kさんのコメント)

この安心問答について親鸞会講師の方から
「あれは、善巧方便ということが分かっていない人の書いた文章」だと言われました。
善巧方便とはどういうことか教えていただきたく思います。よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252248830

回答します。前回のエントリー*1のコメントです。
善巧方便とは、仏様が、巧みに善くてだて(方便)をめぐらして衆生を利益することをいいます。

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。(教行信証信巻)

釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃)

真実信心を獲得させていただけるのは、阿弥陀仏、お釈迦様の善巧方便があったからだといわれています。

親鸞会講師の方が、どのように前回のエントリーをよまれて「善巧方便がわかっていない」といったのかは、このコメントだけではハッキリとはわかりません。

以下は、私の予測として書きます。違っていたら、またコメントをいただければ有り難く思います。

親鸞会講師のいう善巧方便とは、「全力で参詣せよ」ということだと思います。
全力で参詣していけば、そのうち知らされることがあり、やがて救われるということを言っているのだと思います。
また「全力で善をせよ」「善をすれば何かが知らされて救われる」ということなのだと思います。

全力で参詣する前に、何を聞くのかが大事ではないでしょうか?と前回のエントリーでは書きました。
足を運ぶのは、「仏の御名を聞く」ことであり、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜り、ただ今弥陀に救われることなのです。

参考までに、親鸞会では何を聞けと言っているのかということを、親鸞会公式サイトから引用します。ブログで指摘されて一部訂正されてた後なので、親鸞会内ではこれが正式な見解ということだと理解します。

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。

「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)

「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。(以下略)
 (聞法の決勝点

仏願の生起本末を聞けという親鸞聖人のお言葉を出して有りますが、全文を見ても、「生起」はあっても「本末」はどこにも書かれていません。
文末にはこう結んであります。

「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」
「自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す」と機の深信が立つと同時に、その逆謗を生かす「若不生者」の誓いに疑いが晴れるのだ。
 そこまで聞き抜け、と聖人は仰せなのである。(同上) 

聞法の決勝点

要約しますと、「絶対助からぬ自分と知れ、そうしたら助かる」ということです。
または「自己の姿を徹底して見つめなさい、そうしたら助かる」ということです。

「助かる縁の無いもの」と見抜いて本願を建てられたのは、仏願の「生起」です。では、どうしたら、救うことができるのかと、五劫思惟され、兆載永劫のご修行をされて、与える一つで往生させる南無阿弥陀仏を完成されたというのが「本末」です。

「苦しくなければ求道ではない」?

「とにかく参詣せよ」といわれ、「助からない私」とひたすら聞くのが、親鸞会講師の方がいう、善巧方便のようです。聞けば聞くほど、ある意味苦しくなるので「これが求道」と思われるのでしょうか。
「求道は苦しくなければならない、苦しくなければ求道とは言えない」という固定観念が有るようです。
おそらく、「無理をしなければ財施にならない」という親鸞会内で繰り返しつかわれるフレーズから連想しているのだと思います。しかし、その連想から、肉体的精神的に苦しめば苦しむほどよいというように思う人も出てきます。指導する方も、「それが善巧方便」と思って勧めているのでしょうか?

「助からぬ自己を知るために、全力で富山に足を運び、精一杯財施をし、倒れるまで活動するように勧める」のが、善巧方便なのでしょうか?
その勧め通りに実行し、実際に肉体的精神的に倒れていく会員に対しては「縁がなかった」ですませてよいのでしょうか?そして、「倒れた法友の屍を乗り越えて行け」と勧めるのが善巧方便なのでしょうか?

釈尊、親鸞聖人の教えからいって、それが善巧方便ではありません。

求道はある意味苦しいものです。楽して求められる真実信心ではありません。
しかし、苦しくなければ求道ではないというのは間違いです。獲信するのが求道です。

聞法とは、「ただ今救う本願を、ただ今救うと聞く」ことです。「助からない自分だと知るために聞く」のではありません。

善巧方便といわれるのなら、阿弥陀仏は「そのまま来たれ」といわれ、お釈迦様は「阿弥陀仏に向かえ」と勧めておられます。「助からぬ自分と知れ」とは、勧めておられません。

救う法を聞くことがないから、「聞いていればいつか、助かる縁の無いものと知らされると同時に救われるのだ」と思うしかないのかも知れません。
「雑行をすてて、弥陀をたのめ」と繰り返し書かれている御文章をよくよく拝読されたらよいのではないかと思います。

ただ今救われる本願ですから、ただ今救われなさいと、釈尊、親鸞聖人は勧めておられます。

「わが心にまかせずして心を責めよ」(御一代記聞書)とは?(カウフマンさんのコメント)

カウフマンさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「わがこころにまかせずして、こころをせめよ。仏法はこころのつまるものかとおもえば、信心に御なぐさみ候う」と、おおせられそうろう。

と蓮如上人御一代記聞書にありますが、ここで「こころをせめ」るのは阿弥陀仏であると理解して宜しいでしょうか?

 この言葉を知った当初は「楽がしたいという自分の心にまかせないで、仏法の説かれる場所に足を運んで無常と罪悪を問い詰めなさい」というように理解しておりました。
 しかし、どんなに心を責めようとしても、自力の押し任せのようにしか思えません。(カウフマンさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090829/1251549586#c1251590813

回答します。

一、わが心にまかせずして心を責めよ、仏法は心のつまるものかとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。(御一代記聞書47)

本当のところをいえば「こころをせめる」のは、阿弥陀仏です。
「こころをせめる」の「こころ」は自力の心ですから、自力の心を、晴らそうと責められるのは阿弥陀仏だからです。

しかし、自力で自力をすてようと頑張っているようにしか、自覚はできませんから、カウフマンさんのいわれるように自力で自力の押し任せのように感じられると思います。

このお言葉の意味は、カウフマンさんがいわれるように、自分で自分の罪悪を責めるということではありません。
「こころのつまる」というのは、自力で自力は捨てられず、とはいっても、自力がすたらねば救われずという、逃げ場のない心境を表されたものです。

とはいっても、自力で自力はすてられず、とそのままにするのは、そのままのお助けの聞き間違いです。そう思うのがは、「わがこころにまかせる」ということです。自力を捨てずに他力になることはありません。

「自力を捨てて、一心に弥陀に帰命せよ」との教えのとおり、自力を捨てて、阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)

メールで頂いた質問に答えます。

「聞いても他の人のように正確に覚えていないんです。だから、私のような者は、聞きに行ってもどれだけ意味があるのかわかりません」と、ある人に打ち明けたところ
「だから、蓮如上人は「そのカゴを水につけよ」と仰せです。私たちの心はザルのように水をすくったと思ったら、すぐに抜けてしまう。だから、常に聴聞の場に身を運ぶことが大事なのです。」
と言われました。

蓮如上人の御一代記聞書にあるお言葉を読んでも、毎回参詣せよというようには書かれていないと思うのですが、どういう意味なのでしょうか?
(頂いた質問)

回答します。
結論からいいますと、コメントにでてくる御一代記聞書のお言葉は、「参詣せよ」ではなく、「信心決定せよ」との仰せです。

コメントに出てくる御一代記聞書のお言葉です。

一、人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。
(御一代記聞書88)

(大意)
ある人が、「私の心はカゴに水を入れるようなものです。法座に参詣しているときは有り難く、尊い法だと思うのですが、すぐに元の心にもどってしまいます」と心中を告白しました。
蓮如上人は、それに対して
「そのカゴを水につけなさい。わが身が南無阿弥陀仏の大宝海に入るのだ。すべて、真実信心がないことからおきることである。善知識が悪いというのは、信心がないことであり、信心のないことはけしからぬこと」と仰いました。

籠を水につけよ=信心決定せよ

ある人は、自分の心をカゴ(今で言えばザル)に例えて、カゴに水を入れるようにどれだけ水を注いでも、すこしもカゴに残らないように、どれだけ仏法を聞いても有り難い心が残りませんと訴えています。
私が今までお会いした方でも、「聞いても頭に残らないから、ダメです」とか、「若い人のように正確に覚えられないから、助からないと思います」と言われる方がありました。これもカゴに水を入れているのと同じ事です。

それに対して蓮如上人が仰った「そのカゴを水につけよ」というのは、常に法座に参詣しろと言うことではありません。環境を常に仏法に関係するところに身を置けと言うことでもありません。
別の言葉で言えば「常に念仏申す身になれ」、つまり「信心決定せよ」ということです。

カゴで水がすくえないように、私の心で、南無阿弥陀仏をとらえようとしても、とらえられるモノが私の心にはありません。だから、蓮如上人は「カゴを水につけよ」という表現でいわれました。
その直後に「万事信なきによりてわろきなり」だから、信を取れといわれています。

御一代記聞書では、ある人が「有り難く尊く思う心が続かない」といいます。
信心とは、私の心が有り難くなるではありません。私の心が尊くなるのでもありません。カゴを水につけても、カゴはカゴでなにも変化はしません。

何が変わったかと言えば、「水につけた」だけです。「水につけよ」という表現は、正信偈の以下の部分から言われているのだと思います。

帰入功徳大宝海(正信偈)
(功徳の大宝海に帰入すれば)

南無阿弥陀仏のことを、功徳の大宝海ともいわれています。そこに帰入するのだと親鸞聖人はいわれています。

覚えられないというのは、聞いて頭の中にいれた法をつなぎ合わせて南無阿弥陀仏をつくろうとしているのです。そんな合成南無阿弥陀仏では、往生はできません。

活動や、環境を仏法漬けにすればよいと思う人は、絶えず水をザルに流しているようなものです。流れてはいても、ぬけていくのは同じなので、水につけたことにはなりません。

尊く思う心は、信心獲得すれば、南無阿弥陀仏から起きるものです。私が作り上げるものではありません。

「急に救われるわけはないのだから、まずは環境から」というのは、私の理屈で、阿弥陀仏はただ今救うといわれています。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

聞とはなにか?(orimaさんのコメント)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを聞と曰うなり。

のお言葉について教えて頂けませんでしょうか。(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090703/1246622910#c1246921974

回答します。
大無量寿経・下巻の本願成就文にある「聞其名号信心歓喜乃至一念」の「聞」について、親鸞聖人が教行信証信巻に書かれたお言葉ついてのお尋ねです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。

「聞」とは、仏願の生起(阿弥陀仏が本願をなぜ起こされたのか)本末(その本願が成就されたこと)を聞いて、疑心有ることなしというのこと、これが「聞」であるといわれています。

聞くというのは、どういうことかについて親鸞聖人が教えておられます。「疑心有ることなし」というのが「聞」なのだといわれています。
仏法の話を聞かれれば、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのか、どのようにして名号を成就されたのかということを、聞かれることがあると思います。

ここでいわれる「聞」とは、聞いてきたということではありません。
蓮如上人は御文章にこのように言われています。

されば『経』には『聞其名号・信心歓喜』と説けり。『其の名号を聞く』といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実に聞くにあらず、善知識にあいてその教を受けて、この南無阿弥陀仏の名号を、南無とたのめば必ず阿弥陀仏の助けたまうという道理なり。これを『経』に『信心歓喜』と説かれたり。(御文章1帖目15通・宗名当流世間)

「その名号を聞く」とは、南無阿弥陀仏の名号をただ聞くと言うことではなく、善知識にあいその教えを受けて、南無阿弥陀仏の名号をたのむ一念で阿弥陀仏が助けて下されることなのだといわれています。疑いなく、南無阿弥陀仏の名号を頂くことを言われています。
南無阿弥陀仏の名号を聞く、頂くままが信心ですから、信心決定の姿なのです。

親鸞聖人のお言葉も、「聞」とはどういうことか、南無阿弥陀仏の名号を頂いて疑心のない姿になったことだということです。御文章に書かれているように、それを「信心歓喜」といいます。

阿弥陀仏より南無阿弥陀仏の名号を受け取る一つですくわれるのですから、私がこうやって聞いたからとか、こう思ったから、こう思わねばならないということではありません。

往生の業にはわたくしのはからいはあるまじく候なり(末灯鈔)

と言われるとおりです。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

心が戸惑うのは、悪いことではありません(きらりさんのコメントより)

きらりさんのコメントに、コメントをしようと思いましたが、少し長くなりましたのでエントリーに変えます。

私も続けて見てしまうと、心が戸惑いそうなので、これで最後にします。(きらりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547585#c1245297516

「心が戸惑いそう」というのは、「心が戸惑うのが悪いこと」だということでしょうか?

親鸞聖人が京都にもどられた晩年、関東に派遣されていた長男の善鸞(慈信坊)が教えを曲げたことによって、関東の同行の信心が揺らいだことがありました。そのことを親鸞聖人は喜ばれています。

慈信坊が申すことによりて、人々の日頃の信のたじろきおうて在しまし候も、詮ずる所は人々の信心の真実ならぬ事のあらわれて候、よきことにて候。(御消息集)

「善鸞が言ったことで、人々の日頃の信心が戸惑い、動乱したのは、真実信心でないことがあきらかになったからだ、それがわかったのはかえってよかったことだ」と言われています。

読んで戸惑うのは、自力の信心だからです。
「このまま聞いていればいつかは信心決定できる」というのも自力の信心です。
「助かりたい」と本気で思えば、「このままで助かるのだろうか?」と自身の求道に疑問が起きるのは、むしろ健全なことです。
「このままで助かるのだろうか?」という疑問は、阿弥陀仏が起こされる聞法心の現れであって、「考えてはならないこと」ではありません。
凡夫に「助かるのだろうか?」という殊勝な心がでるのは、阿弥陀仏の働き以外にありません。

「見てはならない」の理由が、「これで大丈夫」と間違った信心に腰をかけるというのなら分かります。「心が戸惑う、動揺するから」というのならわかりません。
「心が戸惑うから」というのなら、それまで「戸惑っていなかった」「安心していた」ということになり、安心した求道とは、「このままいけばいつかは救われる」という安楽椅子です。

この安心問答も1年1ヶ月続けています。「これでいいのでしょうか?」という質問に「それでよい」と回答したことは一度もないと記憶しています。

「こうしていけばいつかは救われる」と、年金の積み立てのように思っておられるのなら、それこそ間違いです。これだけ積み立てれば大丈夫と安心している年金信心は、必ず破綻します。
また「どうせ今生は救われないのだから、何かの縁になれば」と聞法するのも間違いです。

「正しい教えを聞いていると思う」のは、自分の考えです。しかし、「正しい教えを聞いていけばそのうち助かる」と思うのは間違いです。
説かれる方が正しければ、100%助かると思うのは、知識帰命といわれるものです。親鸞聖人から直接聞かれた同行が、全員獲信したのではありません。

真実信心を求める道は、獲信するまで安心するところはありません。反対に、あきらめたり弱気になる所もありません。
必ず助ける法に向かい、一心一向に阿弥陀仏に向かうのです。

いつかはではなく、ただ今阿弥陀仏にすくわれることがあります。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

阿弥陀仏は真剣に聞法させるといわれているのかについて(1さん、Kさんのコメント)

前回のエントリー(菩提心とはなにかについて(1さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))についてのご質問です。

どうして浄土に生まれたいと阿弥陀仏の19願力でさせられて、『ここ一つ聞き抜かねば』となりますか?
19願文には阿弥陀仏は真剣に聞かせるとは誓っておられませんが。(1さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1242912349

回答します。
阿弥陀仏の浄土に生まれるにはどうすればよいのか、それには「聞其名号」と本願成就文にお釈迦様が教えられているように、名号を聞く一つで、正定聚の身に救われることです。
「ここ一つ聞きぬかねば」というのは、「ただ今名号を聞即信せねば」ということです。名号を阿弥陀仏から頂き、信心決定の身にならねば、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することはできないからです。
名号を頂くにはどうすればよいのか、雑行雑修自力の心を振り捨てねばならないとなったひとは、どうしたら雑行を振り捨てることができるか、どうしたら自力を振り捨てられるのか、どう思ったら、どうしたら、法座に足をはこんだら、真剣に聞いたら、勤行をしたら、財施をしたら捨てられるだろうかと、いろいろな行をせずにおれなくなります。
「修諸功徳」には、上記のように、どうしたら自力がすてられるのかとありとあらゆることをしようとする行為が入りますから、真剣な聞法も入ります。

それを蓮如上人が御文章に書かれたのが以下のものです。

人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章4帖目3通・当時世上)

雑行自力を捨てる一つ、南無阿弥陀仏を聞く一つとなった人には、いつまで命があるのかという、自分自身の無常と南無阿弥陀仏を頂くのとどちらが先かの競争になりますから、そのことを「老少不定と聞く時は」といわれ、そうなれば「急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」となります。

以前のエントリーで紹介した。阿弥陀仏の願力によって善をさせられるのかについて(Tさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

この親鸞聖人のご和讃でいわれる「往生浄土の方便の善」とは、阿弥陀仏の第19願の願力によってさせられる善であり、どうすれば南無阿弥陀仏が頂けるのか、どうすれば弥陀の浄土に生まれることができるのか、どうすれば自力の心を振り捨てることができるのかと、あれこれ思うこと、体でやること、口でいうことを指していわれています。
「諸善万行ことごとく」ですから、「財施などの善」に限らず、真剣な聞法もはいります。

もともと求めていた人が仏法に出会った場合と仏法聞いてから求め始めた人の場合で違うように思います。
発菩提心の後に仏法(弥陀の救い)を聞いた場合、菩提心=聞法心というと変です。
仏法(弥陀の救い)を聞いてから、発菩提心ならば、菩提心=聞法心=至心発願欲生我国でいいでしょう。
ただ阿弥陀仏から見られたら同じなのかも知れませんね。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1242915283

Kさんのコメントにもありますように、なにを指して菩提心というかによって、話は変わってきます。
私が、ブログ上で解説してきたのは、仏法とご縁があり、阿弥陀仏の本願の救いを聞いている人が、「発菩提心」させられる場合のことをいっています。

阿弥陀仏の第十九願は、「発菩提心 修諸功徳」です。「真剣な聞法をさせる」という文字で書かれていなくても、「ただ今救われようと、あらゆることをせずにおれなくする」ということです。
聞法でいえば、聞法せずにおれなくなるのです。