安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)


疑いがなければ信心だと考えて、まず「疑い」から始めて見ようという御尋ねだと思いました。
確かに「疑心」と聞いても、なんとも実感がない時は自分の心の中に「疑心」を探し出して、それを駆除すればよいように考えてしまいます。しかし、そのような考えはしない方がよいです。


なぜなら、「疑心」といわれるのは「本願疑惑」のことなので、本願を横に置いて疑心だけを探そうとしても詮ないことです。


では、阿弥陀仏の本願とはどういう本願かと言えば、今回のお尋ねから言えば「論功行賞の救いではない」ということです。論功行賞とは、功績を論じその程度に応じて賞を与えることです。阿弥陀仏の救いは、そのような「私の頑張りに応じて、褒美として救ってくれる」ものではありません。


兎角、「命がけの求道」とか「真剣な聞法」をして救われようとしてきた人は、どうしても「これだけ頑張ったのだから、阿弥陀仏は救って下さる時に何か一言くらいあるだろう」と期待をしてしまい勝ちです。しかし、「よく求めぬいた」とか「よく聞き抜いた」「よく頑張ったね」と私の苦労を肯定し、その労をねぎらった上で救って下さるようなものなら、それは論功行賞の救いということになり間違いです。


元々私が苦労をしなくてもよいように、南無阿弥陀仏となって、南無阿弥陀仏一つで救って下さる本願です。ですから、よく阿弥陀仏の救いは「無条件の救い」といわれます。「無条件」ということは、私の側に要求される条件は一切ないということですが、言葉を変えれば「褒められること」もないということです。また、「叱られること」もない救いだということです。

確かに、妙好人とか、上上人とか希有人と、褒められると親鸞聖人は書かれています。

この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。(親鸞聖人御消息6浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P748)

http://goo.gl/YfwkNp

このように書かれているお言葉を読むと、褒められたいと期待する気持ちもよく解ります。しかし、それらは南無阿弥陀仏を讃嘆されているのであって、私の頑張りを褒められるのではありません。

しかし、一度褒められることを期待してしまうと、褒められない限りは本願を聞けないような心になってしまいます。この場合の褒められると期待している心は、本願を疑う心と同じ意味になります。

何も「本当だろうか」「今一つ解らない」というばかりが、疑いではありません。阿弥陀仏に褒めてもらえると、自分の努力を手放さず、なんとか認めて欲しいというのも疑いです。

ところが、阿弥陀仏の本願は私の努力は必要としない救いなので、私の努力を褒められこともなければ、懈怠を叱られることもありません。そのため、褒められることもありませんから、「自分で○○を頑張ったから助かった」と思うことはありません。また、叱られることもありませんから、「懺悔したから救われた」と思うこともありません。

ですから、褒めてくれないから聞かないぞという思いは、いつまで経っても叶わないことです。間違いですから、それは捨てて「ただ今救う」の南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を真剣に聞こう、聞いたら聞き開けることがあると思っていたけれどもなかなか聞けない。現在は、どうしたらいいか分からないという御尋ねです。

確かに、阿弥陀仏の本願を真剣に聞こうと思えば思うほど、なかなか聞けないものです。それはなぜかと言えば、「真剣に聞こう」と思う人は、「助かりたい」と思う一方で、自分の力をあてにしているからです。それでは、阿弥陀仏の「助ける」の仰せを聞いたことにはなりません。

昨日と、本日、大学入試センター試験が行われています。私も過去受験をしたので、受験生の心配はよくわかります。この受験生の心情と、質問された方の気持ちは似ている部分があります。

私の実例を紹介しますと、かつて私が受験生だったとき、近所の「勉強の神」に初詣でして、合格祈願をしていました。それまでの初詣でとは違い、少し真剣に手を合わせていた事を覚えています。日頃は、神社に手を合わせたところで、本気で何か御利益があるとは思っていませんでした。ところが、いざ受験となると、「なにかの手助けになることがひょっとしたらあるかも」という気持ちになり、その「何かの手助けがありますように」と思って手を合わせていました。


これは、受験をした方なら分かると思いますが、「受験は水物」とはいうものの、大半の受験生にとって、それまで勉強してきた学力以上の点数を受験でとることはほぼありません。例えば、模試でD判定の大学に合格すると人はあっても少数です。そこで「日頃の力が出れば」合格出来る大学を出願します。受験祈願も、そもそも「自分の力以上の成績を出させて下さい」ではなく「日頃の力を発揮できますように」という願いに成っています。その根底にあるのは、まず自分の力以外に受験の成功はありえないということで。次に、神頼みはあくまで、自分が力を発揮するための心理的安心を得るための補助に過ぎないということです。


そこで、先ほどの阿弥陀仏の本願を真剣に聞いたら助かると思っている人の話に戻りますと、前述の受験生とよく似ています。


真剣に聞いたら助かると思っている人は、あくまで『自分の力以上のものは結果として出ない」と思っている人です。言い換えると、それだけ自分に自信を持っている人です。これを自力をたのむともいいます。また、それだけ自分に自信を持っているから、阿弥陀仏の救いはあくまで補助的な扱いになっています。その補助的というのは、別の言い方をすると、「本来浄土に往生できる私」を、少し手伝ってくれるのが阿弥陀仏の本願だと思っているということです。

しかし、そのような人は、阿弥陀仏の救いを勘違いされています。なぜなら阿弥陀仏の本願はすでに成就しているからです。私の力を足す必要もなければ、私の力をサポートするという本願でもありません。


親鸞聖人は「大悲の弘誓をたのみ」と言われています。これは私の力は必要ないと言われていると同時に、「本来浄土に往生できる私」という可能性を一切認めておらない事で言われています。なぜなら、阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏となられたのは、私の力を使わなくても、私を浄土に往生させるためだからです。


「助かるはずの自分」という自信は捨てて、「自分の力では助からない」と聞き入れて、ただ今救うの法を聞き入れて下さい。

どれだけの聖人といわれる人も、自分の力で浄土往生はできないと、「自力の往生」の望みを捨てて、南無阿弥陀仏の光にあわれました。

それを親鸞聖人は、御和讃に言われています。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃)

「阿弥陀仏の本願をただいまそのまま聞く、ということがどういうことなのか、皆目わからないのです」(安藤さんのコメントより)

安藤 2014/08/26 01:17
阿弥陀仏の本願をただいまそのまま聞く、ということがどういうことなのか、皆目わからないのです(T_T)

弥陀の本願を他の表現、言いまわしで説明することも難しいので、山も山さんは、いつもこのような言い方しかできないのですよね(T_T)

私も早く聞いて肩の荷を降ろしたいです。

私が思ってるのではなく、阿弥陀仏が先に思っておられることなのでしょうがf^_^;

私という奴は、全く思ってないのがほんとの姿なのでしょうが…

阿弥陀仏の本願をただ今聞くというのが分かりにくい表現だったので考えてみました。

言い換えれば、二河白道の譬でいう「汝一心正念にして直ちに来れ」(ただ今助ける)の阿弥陀仏の仰せを確認しないということです。

この確認しないというのはどういうことかというと「ただ今助ける」と聞いて「どうして?」「どうやって?」「助けるって具体的にどういうこと?」の思いがないということです。


言い替えると、阿弥陀仏が五劫思惟された結果の「ただ今助ける」は、確認しようとすれば少なくとも五劫かかるので、そんな時間がかかっていたら臨終に間に合わないので結論だけはまず聞き入れるということです。

一度でいいですから、阿弥陀仏の仰せを聞いたままにして、あれこれ疑問を挟まないで下さい。

お聴聞していると、「おはたらきをさせていただく」という言葉が当たり前に出てくるので、おはたらきのもつ意味を吟味してみたかったのです。(匿名希望さんのコメントより)

匿名希望 2013/04/15 19:41
ありがとうございます。
確かに法を伝えるということがわからないのかもしれません。
お聴聞していると、「おはたらきをさせていただく」という言葉が当たり前に出てくるので、おはたらきのもつ意味を吟味してみたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130415/1366016819#c1366022498

「おはたらきをさせていただく」は、お寺などで使われる一種の慣用表現と思います。真宗以外の場では、私も聞いたことがありませんでした。
「おはたらき」の主語は阿弥陀如来です。「させていただく」の主語は私です。

阿弥陀仏の仕事を、私が代理でさせてもらうという意味合いで使われている言葉なのだと私は受け取っています。そうなりますと、その「おはたらきをさせていただく」のは、現在阿弥陀仏に救われた私ということになります。往相廻向も還相回向も、「おはたらき」としては、阿弥陀仏から頂くものです。なぜなら、南無阿弥陀仏に、「往相回向」「還相回向」の二つは収まっているからです。


匿名希望さんが、どのような方かは私はよく判っていませんが、「自信教人信」といわれるように、自らが信を得て、人に教えて信ぜしむるのが、浄土真宗では伝える人の基本的立場です。


そこで、「現在の私が法を伝える」という点について考えますと、その相手は各人によって縁のある人は異なります。
「寺の住職」ならば、その寺の門信徒の方が多くなるでしょうし、「一門信徒」ならば、家族や、友人・知人、同じ寺の門信徒ということになるかと思います。


さて、「おはたらきのもつ意味」について書いてみます。
確かに、衆生済度あるいは、人々を救う活動は阿弥陀仏または南無阿弥陀仏の独り働きに違いありません。しかし、「力」の出所はさておき、「私の気持ち」の置き場所が定まりません。
「衆生済度は阿弥陀さまのお働き」「私はその媒介にすぎない」と割り切れるようなものならば、本願力回向とはいわれません。阿弥陀さまのお働きは、私にさし向けられるといってもただの踏み台になるだけではありません。実際に「法を聞いてもらいたい」という気持ちにさせられるものです。

確かに、その気持ち自身の阿弥陀仏によっておこされるものですが、起こされた側からいえばやはり「法を聞いてもらいたい」と思っているのも事実です。その「法を聞いてもらいたい」という気持ちに従い、自分の持ち場でいろいろと悩みながら有縁の方に法を伝えていく努力が、如来よりお働きを頂いた結果だと思います。

まづ有縁を度すべきなり(歎異抄第5条)

とあるのは、浄土へ行き仏になってからことを言われたものですが、自分のいる持ち場でできるこをしていこうと努力することが、菩薩行ではなくても報恩行と思います。

追記:「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」(おさびしやまさんのコメント)

2012-01-05のエントリーについて、追記です。
おさびしやまさんのコメントの意図を取り違えて書いておりました。申し訳ございませんでした。そこで、複数の方からコメントを頂いて、改めてエントリーを書きます。コメントを書かれたみなさん有難うございました。

広島の名無し 2012/01/05 23:33
たぶん、おさびしやまさんは、長八さんの言われるように「無耳人」、「真実を聞く耳を持たぬ者」という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞即信」の「聞」は、自分の力ではできない、という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」といった素朴な疑問を上げておられるのだと思いますがどうでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325773981

おさびしやま 2012/01/06 11:20
広島の名無しさんの言われるように「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」という素朴な疑問です。世間ではそういったことはしませんし、している人が居たら、まわりにいる人が注意します。山も山さんは、それを敢えてなさっているので、何か深い意味があるのだろうと思ったのです。それを知りたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325816423

おさびしやまさんの言われる通り、聞即信の「聞」は、自力で聞いたという聞ではありません。そこで、「聞く力がないものに、聞いてくださいとは酷なのでは?」とのことですが、「自分の力で聞くことができないから、阿弥陀仏の仰せに救われてください」という意味で今まで書いてきました。自力の「聞」(疑いのまじった聞)では救われないので、他力の「聞」(疑いない聞)で救われて下さいという意味です。

聞即信の聞は、「本願を聞いて疑心あることなし」の無疑心のことですから、おさびしやまさんの問いは、「自分の力で無疑心になれないものに、無疑心になれとは酷なのでは?」と言われているのと同じことになると思います。

しかし、無疑心とは何によっておこされるかといえば、名号です。

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P231)

http://2jq.pp.sl.pt

無疑心といっても、自分で頑張って「無疑心になった」ということはありません。無疑心の体は名号ですから、南無阿弥陀仏によって無疑心となります。

なぜ南無阿弥陀仏によって無疑心となるのかといえば、私には自らの力で清浄、真実の心になることができないからであり、そのため阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向してくださるのだと、上記のご文の前に親鸞聖人は書かれています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。
ゆゑに疑蓋雑はることなし。(同上)

※現代語訳はこちら 
「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。」と書かれています。阿弥陀如来が私に南無阿弥陀仏を差し向けて施してくださっています。その南無阿弥陀仏の回向を、喚び声ともいわれるので「聞其名号」とお釈迦様は言われました。

また、親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」と言われました。

自分の心で無疑心とはならない私だから、「聞思して」と親鸞聖人がいわれるの「聞」は、名号のお働きによって無疑心となったことを言います。

お尋ねのことについて、もう一度書きますと「自分で聞く力がないから、南無阿弥陀仏によって聞(無疑心)いて下さい。」それ以外にはないので、日頃そう書いています。特別に深い意味はありません。

「そのまま」といわれても理性で堂々巡り(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)「今日こそは、信じよう、称えよう、いただこう、よろこぼう」の心はすべて計らいであると。でも、知識や理性でものごとを判断しているのが自分なのであって、どんなときも、知識や理性を抜きにすることはできないので、結局自分では計らいは捨てることはできないと思います。そうすると、自分では何もできなくなってしまうのですが、何もせずにいても何も変わらないですし、「そのまま素直に聞くだけ」と言われても何が「そのまま」かと思うとまた理性で結局どうどう巡りです。阿弥陀仏はどうして私を助けてくださらないのでしょう。
また、もし助からないまま死んでしまった場合、阿弥陀仏を疑っている上、念仏も相続して称えることもできない私は化土にもいかれないで六道を廻ることになるのでしょうか。(メンデルさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110309/1299619885#c

阿弥陀仏はどうして助けてくださらないのかと言えば、阿弥陀仏のお働きを自分で計らっているからです。阿弥陀仏は、ただ今メンデルさんを助けようと働いておられます。

理性を抜きにして考えることは、仰るとおり出来ません。自分では捨てることが出来ないので、阿弥陀仏が計らいを破ってくださり、取ってくださるのです。
阿弥陀仏が取り上げて捨て去って下さる計らいを、自分で「そのまま」になって捨てようとしているのが計らいです。

「そのまま」とは、「そのままになる」ことでも、「そのままになろうとする」ことでもありません。自分の手を加えないことです。「そのままになろう」という手を加えないことです。
反対から言えば、常に「そのままになろう」と常に手を加え続けているのが私です。「そのままになろう」の堂々巡りは続きますが、どこまでいっても終わりはありません。

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 
大小聖人*1みなながら 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃72・浄土真宗聖典(註釈版)

どれだけ理性や知恵を巡らしても、阿弥陀仏の浄土は「願力成就の報土」ですから、「自力の心行いたらねば」といわれます。阿弥陀仏の願力に依らねば往生できません。龍樹菩薩のような方であっても、自力の心行を捨てて、「如来の弘誓に乗ず」といわれています。

自分の力でどれだけ理性を巡らしても浄土往生は出来ないからこそ、阿弥陀
仏の本願の仰せを聞く以外にありません。

もし助からないまま死んだらどうなるか?については、間違いないと言えるのは、浄土往生はできないということです。
では、どこへ行くのかということについては、一人一人のの行為によって変わるので、私には分かりません。
化土ならば、地獄よりは安心とか、人間界ならまだいいというものではありません。化土も阿弥陀仏が願われている世界ではありませんし、六道はどこであっても生死の世界であることにかわりはありません。地獄に堕ちるなら頑張ろうと思う心もあるかもしれませんが、いづれにしろ、浄土往生できないことが阿弥陀仏にとっては一大事です。

必ずただ今阿弥陀仏は救ってくださいますので、ただ今阿弥陀仏に救われてください。

*1:大小聖人・・「大乗の聖人、小乗の聖人」(異本左訓)

「自分はまだそこまで行っていないのですが」の「そこ」は「どこ?」ですか(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはただ今の救いと聞きますが、どうも自分はまだそこまで行っていないように思いますが、こういう考え方は間違いでしょうか?(頂いた質問)

「まだそこまで行っていない」という考え方は、結論から言いますと間違いです。
しかし、私自身もそのように考えていたので、それについて考えてみます。

まだそこまで行ってないの「そこ」とは「どこ?」

私自身は、「なにか心境の変化が起きる」ことだと思っていました。
具体的にどんなものがあったか、思いつくまま列記してみます。

  • 無常観が強まり、明日をも知れない命だという強い自覚が芽生える。
  • 罪悪観が深くなり、自分の後生はどうなるんだろうかという気持ちになる。
  • 「雑行」が問題になる。(親鸞会用語)
  • 自力の心が、悪い心だと分かるようになる。
  • 念仏を称えずにおれない心境になる。
  • 浄土を願う気持ちが強くなる。
  • なんとしても今日聞き抜かなければならないという強い気持ちが起きてくる。

だいたいこんな心になるというのが、私にとっての「そこ」だったと思います。

こう思うのも「ただ今救われる」とは、なかなか信じられないために「そこ」まで行ってみようと、「救い」を「そこまで行く」にすり替えていたからです。
そうなると、仏法を聞くのも「そこ」へ行くためになる、「ただ今救われる」という阿弥陀仏の本願の心はどこかへ行ってしまいます。

未熟者は救われないとか、上記にあげたような心があるような人間でないと救われないという思いは、阿弥陀仏の本願とはまるで逆の考え方です。
阿弥陀仏は「今は未熟だから救えない」「今はこういう状態だから助けることができない」という仏さまではありません。
阿弥陀仏は、○○な者を選ばれない仏さまです。

不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 (五会法事讃)(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P704.6行目

  • 貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。(行巻訓)

不簡とは、えらばずとよみます。えらばずと、四回繰り返しておられます。
貧しい者、苦しみ困っている人、富のある人をえらばれません。
智慧の浅い人と、広い学問を持つ人をえらばれません。
お聖教を広く大きく聞いている人、戒律を守れる人もえらばれません。
戒律を破り、罪が深く、良い心が少なく、悪い心の多い人もえらばれません。

すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P707.1行目

と言われてます。
どんな人もえらばないことが、阿弥陀仏の本願の元にあります。「不簡(簡ばず)」と四回も重ねて言われてることを、こちらで「そこまで行かねば」というのは、自分で本願を計らっているからです。
「それが弥陀のお計らいだ」と、条件をいろいろと設定するのは間違いです。
必ずただ今救われます。「そこまで行く」のではなく「ここ」で救われます。

聞法はただ今聞いていること(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

救われる「道」はない・・・と言われても、何もしなくてもいいわけではありませんよね?
“聞法する”という「道」はありますよね?(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101201/1291192486#c1292326161

もちろん「『なにもしない』ということをすれば助かる」のではありません。
聞法はとても大事な事ですが、コメントされたエントリーの趣旨からいえば「道」ではありません。聞法の道という「道」があれば、その間を進める人と進めない人が出てくるからです。

時間の流れからいえば、一日一日と日は流れ、今年も残りあとわずかとなりました。仏法を聞き始めてからの時間の経過の視点では、1年間、2年間、10年間とその人その人の道はあります。しかし、それは振り返ってみていうことです。

南無阿弥陀仏は、ただ今私に呼びかけられ、働いておられます。どこか道を進んだところで待っておられるのではありません。「この道を早く進んで来なさい、進んで来れる者は救おう」と誓われた本願でもありません。
「進まねば聞けない」というのは、南無阿弥陀仏を自分とは離れたところに置いている考え方で、自力の計らいです。いつでもどこでもこの私に常に働いて下さる南無阿弥陀仏ですから、ただ今救われます。自分と離れたところにある南無阿弥陀仏ではないと、聞いて下さい。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖目5通)

信心獲得といっても、「道」を進んで何かをつかみ取ることではありません。第18願をこころうることです。それは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだと言われています。南無阿弥陀仏は、道を進めない私のために阿弥陀仏が自らよりそって働いて下さるお働きですから、ただ今疑いなく聞いて救われて下さい。

不思議な声を聞くのが「聞いた」ではありません(頂いた質問)

親鸞会にいた時は,鳴かぬカラスの声とか片手の音,不思議な声…というように聞いたことがありますが,自分の称えている音声の中に明らかに自分の声とは異なる阿弥陀仏の喚び声として聞こえてくるということでしょうか。(頂いた質問)

「鳴かぬ烏の声」「片手の音」で喩えられるのは、「特別な音が聞こえるのではない」ということです。よって、明らかに違う声が聞こえるということでは有りません。

阿弥陀仏の呼び声が、実際に現れて下さるのが、南無阿弥陀仏です。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)

という歌があります。

音としては、自分で称えた「南無阿弥陀仏」を自分で聞いているのですが、その南無阿弥陀仏そのものは、「つれてゆくぞの親のよび声」で阿弥陀仏が「ただちに来れ」と呼び続けて下さっている呼び声です。
いわゆるモーゼやジャンヌダルクが聞いたという「神の声」のような声が聞こえるのではありません。幻聴のように「自分はしゃべっていないの誰かの声がする」という声ではありません。声そのものは、「われとなえわれ聞くなれど南無弥陀仏」です。

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(教行信証行巻・註釈版聖典P186・選択本願念仏集の引文

阿弥陀仏が本願で、称名を本願の行とされました。本願に疑いなく南無阿弥陀仏するものは、必ず往生させてみせると誓われています。
ですから、口で称える南無阿弥陀仏は、私が称えようとして称えた音声ではなく、阿弥陀仏の本願の行そのものなのです。それ以外に何か特別に聞こえるものはありません。

「仏願の生起本末を聞いて疑心有ること無し」の、「聞いて」は、称える念仏以外に、法話の場で本願について聞くことや、お聖教の文字であったりしますが、いずれにしろそれ以外の特別な音声が聞こえるのではありません。

大事なのは「特別な音声を聞く」ことではなく、本願を聞いて疑いがあるかないかです。
特別な音声を聞いたか、聞かないかではありません。

聞いたそのままについて(頂いた質問)

前回のエントリーの補足です。

阿弥陀様にまかせることは私に出来ることなんでしょうか?私の方が先にまかせたいという思いのせいですか?
同じことを何度も何度もお聞きして申し訳ないのですが、「聞いたそのままが、他力の信心です。」の 聞いたそのまま が知りたいです。(頂いた質問)

私が「まかせる」という行為をするということではありません。
私が「まかせた」結果救われるのであれば、前回のエントリーで書いたように、「→」の関係になります。
阿弥陀仏にまかせるとは、私の行為ではなく、阿弥陀仏の願いを聞いたそのままの状態をいいます。

阿弥陀仏のまかせてくれよの仰せの通りになったことを、阿弥陀仏にまかせた(状態)といいます。
「聞いたそのまま」とは、聞いたことに私の計らいを交えないということです。

「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。
「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。(正像末和讃・自然法爾章

阿弥陀仏の救いは、私の計らいを交えないということを、「自然」という言葉で表されています。行者の計らいではなく、自ずからしからしむということです。私がこうなるだろうとか、あのようになるだろうという計らいを超えたもので、本願力だけで救うというものです。
そのまま救うというお助けは、行者のはからいではないということです。私の計らいを付け加えないといけないものではありません。何かを足そうとするものは、捨てものであり、不要なものです。
聞いたそのままとか、聞いたことは、如来の誓いであり、本願ですから私のはからいはそこに入らないと言うことです。

助けるぞ→助かるぞ ではなく、助けるぞ=助かる です(頂いた質問)

私は、機無と言いながらも「どうしてもつかもう」、「確信が欲しい」、「阿弥陀仏の勅命がわが心にハッキリと呼び声となってきこえてくださる」と思ってしまいます。
そうでないと安心ができないような気がします。
しかし、「まかせている状態」とよく教えて下さいますが、世間でも、自分には出来ない事をプロの人にお願いして、「まかせてくれ」と言われ、「はい、お願いします。」とまかせて安心することがあります。
阿弥陀佛は「まかせよ」と言い続けておられます。「はい、お願いします。」とならないのはなぜなんでしょう。(頂いた質問)

私にハッキリするものがらは、本来ありません。ハッキリするとか、疑いないというのは、阿弥陀仏の本願の中にあることです。阿弥陀仏の本願がハッキリ分かるような人は、仏でないとわからないことです。

如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(末灯鈔7

といわれるように、弥勒菩薩でもはからうことができないものですから、私の中にハッキリするものがあるはずだと、人間でわかる種類のものではありません。
何にもハッキリしないのかと聞かれれば、疑いない本願を疑いなく聞き入れると言うことです。
「はい、お願いします」と私が言うといっても、私が阿弥陀仏の本願を十分に分かるから「はい、お願いします」とまかせるのではありません。
阿弥陀仏の仰せに対しては、聞いてから→分かりましたというような差がないのです。
仰せがそのまま、聞いたと言うことです。昔から「勅命のほかに領解なし」といわれるのは、その事です。
助けるぞ→分かりました、というような差が有る場合は、私と阿弥陀仏との間に区別があります。
助けるぞが、助かるになるというのは、言葉で書けば「→」と矢印がつく関係になるように思われるかも知れませんが、そうではありません。「助けるぞ」が「助かるぞ」です。記号で表すのは適当ではありませんが、「→」ではなく「=」なのです。

ですから、「はい、わかりました」という返事をすると思うのは「→」です。実際は、「助けるぞ」が「助かる」の「=」なのです。私は返事をしていないといっても、返事はいらないから、「勅命のほかに領解なし」といわれるのです。
ただ今救うが、ただ今助かるです。

そのままとは、きいたそのまま。補足2

聞いたそのままの、補足エントリーその2です。

他力の信心は、本願を聞いたそのままということについて書いてきましたが、その補足です。

他力の信心は、聞いたそのままということは、別の言葉で言いますと、他力の信心は、そのものがらが私にないということです。私の方になく、南無阿弥陀仏の中にあるということです。

蓮如上人が、「聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と、聖人一流の章に言われています。浄土真宗の教えは、信心が本です。
その信心とは、「信じております」という信心ではありません。一般で言う宗教とは、信じるものがらが私の中にあるのです。他力の信心とは区別する意味で、そういう信心を「確信」とします。自分で間違いないと確信するのは、他力の信心ではありません。
ですから、一般に言う宗教団体は、親鸞会も含めて、「あなたは間違っている」というと「私は間違っていない!」とかたくなになり、自分で確信を固めます
自分は間違いないと、確信をもつということは、第3者からの意見を聞く耳がなくなってしまいます。そうやって自分だけ「これこそ真実」と気分を高揚させていきます。マルクスが宗教はアヘンだとか、毒酒だといったのは、こういったところからきます。自分だけが閉じられた世界のなかで、酒に酔ったようによい気持ちになり、他のことは一切聞かなくなるからです。
しかし、他力信心は、そういう閉じられたものでは有りません。開かれたものが他力の信心です。どうしてかといえば、助かるとか、信心のものがらが私にないからです。

自分の中に閉じ込めた確信は、信心のものがらが自分で所有しているので硬くなります。例えていえば、1億円を鞄に入れて自分の手元に持って暗い夜道を歩くとなると、周りの人に取られるのではないかと疑心暗鬼になり硬くなってしまいます。
信心は、所有化している限りは、どうしても自分でつかんで硬くなります。○○だから間違いないという、○○は、全部私の中の三業であり、確信です。
他力の信心は、信じるものがらが私の中にないので、「これで間違いない!」と確信する必要がないものです。また、壊れないようにと、自分で守る必要もありません。相続も、自分の手元に無いので、自分で相続させようと頑張るものでもありません。

他力信心のものがらは何かと言えば、南無阿弥陀仏です。私の作ったものでも、私の所有できるものでもありません。
「信心獲得」ときくと、信心が所有できるものであるように思いますが、そうではありません。所有できると思うところに、信心のものがらを自分の中に探す心が出てきます。安心が出来た、確信ができた、大丈夫になったなどというのがそれにあたります。仮に見つけたとしても、信心のものがらは、南無阿弥陀仏であって私の確信では有りませんから、みつけたものがらは他力信心ではありません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通・信心獲得

信心獲得は、阿弥陀仏の第十八願を心得ることであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだといわれています。
では、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるとはどういうことかといえば、「自力を捨てて、一心に弥陀をたのむ」ことです。聖人一流の章で言えば「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命」です。自力を捨てるも、一心に弥陀をたのむも別のことではなく同じ事です。
弥陀をたのむとは、南無阿弥陀仏をたのむということです。南無阿弥陀仏にまかせるということです。助かるとか、助からないとか、往生出来るとか出来ないとかは、全部南無阿弥陀仏の受け持ちです。
私の仕事はそこにはないということです。信心のものがらは、私の中にはありません。南無阿弥陀仏を聞いたそのままの、南無阿弥陀仏の中にあります。どれだけ頑張っても私のものにはなりません。

私が聞いて間違いなくなったことが信心ではありません。間違いのない南無阿弥陀仏を聞かせていただくのが先です。聞いたそのままが信心です。

そのままとは、聞いたそのまま、の補足

聞いたそのままということについて、前日エントリーの補足です。

聞いたそのままとは、どういう事かについて、蓮如上人の御文章から紹介します。

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。(御文章5帖目14通・上臈下主

聞いてなんとかしようというのは、わが身の罪の深きことをなんとかしようという心ですから、それはうち捨てよといわれています。弥陀にまかせて、「ただ一心に阿弥陀如来後生助けたまえ」とたのむとは、阿弥陀仏にお願いすることではありません。阿弥陀仏に向かって、「そのまま救う」というなら助けて下さいと請求することではありません。
「助けたまえ」とは、請求ではなく許諾といわれます。許諾とは、相手の願いを受け入れることをいいます。
阿弥陀仏が、「そのまま救う」「助けさせて下さい」という願いを私に言われていることにまかせることをいいます。
私が請求することではありませんから、私が真剣になるとか、ならないということではありません。そのことを親鸞聖人は、自然法爾の章でいわれています。

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからせてあひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すとぞききて候ふ。(正像末和讃・自然法爾章

阿弥陀仏の本願が、最初から私のはからいによるものではなく、南無阿弥陀仏とたのませて、といわれています。
この「南無阿弥陀仏とたのませて」ということを、蓮如上人は「弥陀をたのむ」といわれています。南無阿弥陀仏はただ今救うの弥陀の仰せですから、南無阿弥陀仏とたのむとは、ただ今救うの仰せのままということです。聞いたそのままということです。
南無阿弥陀仏の仰せのままに、私を救って下さると阿弥陀仏が計らって下さるのですから、私がよい事を思うとか、悪いことを思うとか関係ないことを、阿弥陀仏の救いであると法然上人からお聞きしたと言われています。

私がお願いした結果でも、私が聞いて何か工夫をした結果もでもありませんので、お軽同行が言われたように、「聞くより先のお助け」となります。
ただ今、阿弥陀仏のただ今救うの仰せを聞いたそのままのほかに、信心は有りません。

そのままとは、聞いたそのままということ(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、そのままと聞くと「このままで何もしなくてよいのだろうか?」と思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはそのままの救いですよという言葉はよく聞く言い方です。
この「そのまま」というのは、二通りの意味で解説することができます。

  1. 貴方はそのままで救われる。(煩悩具足の凡夫は変わらない)
  2. 聞いたそのままが救いである。

1、貴方はそのままで救われる。(煩悩具足の凡夫は変わらない)について

そのままと聞いたときに、どうしても「私がそのまま」というように聞いてしまいます。もちろん救いのものがらは、私の中にあるわけではなく、南無阿弥陀仏の中にあるのですから、私の三業に何か善根を付け足したり、悪業を減らしたりしなければならないのではありません。
善人になって救われるのでもなければ、悪がより知らされて救われるのでも有りません。そうでなければ、ただ今救われることはありません。

しかし、お尋ねのことについて大事なのは2の方だとおもいます。

2、聞いたそのままが救いである。

「直ちに来たれ」が、阿弥陀仏のよび声であり、南無阿弥陀仏のお働きです。
その名号を聞いたそのままが救いになることを、聞即信といいます。
「直ちに来たれ」「そのまま救う」が、「私の救い」になるということです。「助ける」の仰せが、そのまま「助かる」になることです。
聞いたことが、そのまま信心になるので、聞即信といいますが、その「聞」については、親鸞聖人が、

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり(一念多念聞意)

といわれています。阿弥陀仏の本願を聞いて疑心が無いのが、聞ということです。
「直ちに来たれ」を聞いたそのままが、聞ということです。
聞いたそのままの聞ということで、これを「如実の聞」といいます。
「聞其名号信心歓喜」と本願成就文にいわれた「聞」は、この「如実の聞」です。
私は本願は何度も聞いていますが、阿弥陀仏の呼び声が聞けませんといわれる方の「何度も聞いている・聞」は、この「如実の聞」ではなく、「不如実の聞」だからです。
不如実の聞とは、どんな聞かといえば、二十願にあるような「聞」です。

聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国
わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん(二十願)

20願でも「わが名号を聞きて」と有りますから、18願成就文に「その名号を聞きて」とあるように「名号を聞いて」いるのは同じです。しかし、20願でいわれる「聞」は、名号を自分の功徳の本にして、自分で称えてその功徳を阿弥陀仏に回向しないと助からないと聞き誤っているので不如実の聞といわれます。

名号を「そのまま救う」と読み替えるとこうなります。
「そのまま救う」と聞いて、「そのまま救う」と私はちゃんと聞きましたよ、わかりましたよと理解を加えて阿弥陀仏に差し向ければ、阿弥陀仏がOKの返事を下さると聞いているということです。「そのまま救う」を聞いたそのままに聞いていないので、これを不如実の聞といいます。
「そのまま救う」をわかろうとするのは、「分かろう」「知ろう」と南無阿弥陀仏に手を加え、手を出しているのです。20願で言えば、私から阿弥陀仏に至心廻向している姿です。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏から回向されるものであって、私から回向した結果さらに返事として頂けるものではないのです。
例えていえば、向こうから押して開けて頂くドア(こちらから見れば引いて開く)を、こちから一生懸命押しているようなものです。押して開かない構造のドアを一生懸命押しても、どれだけ押してもそれは絶対に開きません。硬くなるばかりで、絶対に開きません。

微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(教行信証化土巻)

と化土巻に言われたのはこのことです。
厳しく聞き間違いを戒められています。

「そのまま救う」と聞いた本願を、聞いたそのままが信心です。聞いて分かったのが信心ではありません。聞いたそのままにしないのが、自力の心といわれるものです。それは捨てものです。阿弥陀仏から私へ私へと回向される南無阿弥陀仏を、私から阿弥陀仏へと聞き誤るのですから、私から阿弥陀仏へという心は捨てよといわれ、私へ私へと回向される南無阿弥陀仏をたのめと言われるのです。

「弥陀の呼び声」を聞いていないのではなく、聞いているけど聞き誤っているのが「不如実の聞」です。
聞いたそのままが、阿弥陀仏の救いですから、自力は捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

そのままになろうとするのは、そのままではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞くと、そのまま何もしなくてよいように思ってしまいます。それでは違うようにも思うのですが、どういうことでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはそのままの救いですが、何にもしなくてよいんだと座り込むのは、横着になってしまいます。やりたい放題なんでもしておれば救われるということでは、そのままではなく、わがままになります。
「そのまま」というのは、「聞いたそのまま」ということです。

聞いたそのままと言うことは、私の側で判断をあれこれつけない救いだということです。
仏法の話をきいて「これで大丈夫」とか「これで安心」と思う判断をつけると、その判断を加えることによって、「そのまま」ではなくなってしまいます。

「○○」【だから大丈夫】「○○」【で安心】「○○」【だからダメだ】

上記の【だから大丈夫】、【で安心】というのが、付け加えた判断ということになります。その判断が、自分自身のたよりになるので、往生するかどうかを、自分の側で全部囲い込んでしまいます。
言葉は違っても、「○○」【だから大丈夫】も「○○」【だからダメだ】は、自分の判断が基準になるので、それではあてになりません。
助かる働きは、全部南無阿弥陀仏の中にあるので、私の判断が加わる必要もありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通

阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに、「貴方を仏にさせることができなければ、私も仏のさとりをとりません。と誓われた、その本願が成就した姿が、南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が、私の往生が定まった証拠です。だから、信心獲得するといっても、ただこの南無阿弥陀仏のおはたらきであるということです。

南無阿弥陀仏に、「私が聞いた」「これで大丈夫」を加えて、往生が定まるのではありません。
往生定まった法である南無阿弥陀仏を、聞かせていただくということです。それが、「聞いたそのまま」ということです。
「聞いて間違いない」という私の判断が間違いないのではありません。聞こえて下さる南無阿弥陀仏が間違いないのです。
「そのままになろう」とするのではなく、「そのままの法」を聞くのです。
「そのままになろう」とすると、聞いたそのままにはなりません。そのままになろうと肩に力をいれるのは、ちょっと横に置いて、そのまま救うの南無阿弥陀仏を聞いて下さい。