安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私が本願を知って、本願に誓われてある通りになろうともしないで、本願の通りになる、ことなどあるのでしょうか?」(りきいしさんのコメントからの問答)

りきいし 2012/10/06 02:33
私が本願を知って、本願に誓われてある通りになろうともしないで、本願の通りになる、ことなどあるのでしょうか?


yamamoya 2012/10/06 04:53
りきいしさん

本願を知らずに本願通りになるということはありません。しかし、本願を聞いてみると、「自分が求めねばならないと思っていた本願」とは違うので、「(自分が思っていた)誓われている通りになろうと思った本願」通りになっていません。
「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。しかし、なろうと思ったからなれたというのは、間違いになります。


りきいし 2012/10/06 06:39
「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。

とおっしゃるのは、どういう意味でおっしゃるのか。何故大事なのか。思い通りになるのではないのに、思いは大事とおっしゃる意味がわかりません。


はてな 2012/10/06 09:23
その思いは,阿弥陀仏によって起こされた心だから大事なのだと思います。
「阿弥陀仏が私に本願を知らせ,本願に誓われてある通りにならせようし,本願の通りになる」
という言い方の方が合いませんか。


りきいし 2012/10/06 09:59
そうならば、なろうと思ったからなれるのではないにしても、本願通りになろうと思うことは、本願のねらいの一つと言えるのではないでしょうか?


はてな 2012/10/06 13:01
ねらいの一つというよりも,過去世からの不思議な因縁と仰がずにおれないというのが私の味わいです。


たかぼー 2012/10/06 16:05
諸善万行の雑行を行するをもって仏道を求めるよりは、弥陀名号を専念して行することの方がはるかに仏心に近づいたと言えますでしょう。しかし、自力疑心の罪深く、弥陀の18願海に転入することは永久に不可であります。念仏の行を行うことをもってよしとせず、自力疑心を弥陀の願心を聞くによって消尽させて頂きましょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121005/1349428196#c

りきいしさん

分かりにくい文章になりすみませんでした。
>「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。
について、コメントします。

上記のような心が起こらない人は、法を聞く気がない人であり、念仏を称えようという心も起きません、浄土往生を願う気持ちも起きない人です。言葉を変えると法に向き合う心のない人に、自力だとか計らいという話は問題にもならないことになってしまいます。

そういう意味で「法を聞く気持ち」は大事です。しかし、その「法を聞こうという気持ち」を強めていけば救われるという法ではありません。

「法を聞こうという心」は、阿弥陀仏に向かったときに、「私から阿弥陀仏の法を取りに行く」心になるので、私の求めるより先立って建てられた本願に合わなくなります。いわゆる先手の法に対して、こちらから先に手を出せばそれを自力の計らいと言われます。なぜなら、すでに本願が成就して現在働いておられる阿弥陀仏の本願があることにもかかわらず、「こちらから信心を受け取りに行こう」という心は本願に自分の力を加えてなんとかしようという心です。

簡単に図示するとこのようになります。

本願力がどこか途中で止まっており、自分と本願力の隙間を「自分の努力」「自分の聞法心」「自力の念仏」を加えて埋めようとする考えは間違いです。

「本願力はすでにただ今この私に届けられている」ことを認めない計らいが問題なのです。
自分のなにかを加えなければならないという計らいは、すでに私に先行して届けられている本願を疑っていることになります。

本願力は、南無阿弥陀仏となって私にすでに呼びかけられています。現在、本願に救われようと思われているりきいしさんにとっては、「聞く気になるかどうか」ではなくて、「本願をただ今聞くかきかないか」という問題です。

縁あって、阿弥陀仏の本願を聞かせていただくご縁があったのですから、あとはりきいしさんがただ今救う本願力を疑い無く聞くだけです。

「一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めていることにはならないのですか?」(りきいしさんのコメントより)

りきいし 2012/10/05 02:43
そういう本願を、一心正念でない者に呼びかければ「一心正念になろう」と努める心を生じさせるところに、阿弥陀仏の狙いがあるのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349372589

yamamoya 2012/10/05 04:37
りきいしさん

阿弥陀仏の狙いということでしたら、第十八願に「本願を信じ念仏するものを浄土に往生させ仏に生まれさせる」とあるので、それになります。「努める心」が起こせないもののために、阿弥陀如来が如来の至心を信楽せよと誓われています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349379474

りきいし 2012/10/05 06:29
一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めていることにはならないのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349386197

たかぼー 2012/10/05 10:44
念仏を称えることによって一心正念になろうと努めることは、弥陀20願の果遂の誓いの願力によるものでしょう。しかし、それは祖師が「罪福を信ずる心をもて本願力を願求す。これを自力の専心となづくるなり。」(化身土文類)と言われている廃捨されるべき本願疑惑心であります。この疑惑心をもって18願の真実信心に転入することはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349401464


りきいしさんが言われるように、「一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めている」ことになります。しかし、阿弥陀仏は一心正念になることを期待して念仏を称えなさいと言われているのではありません。また、一心正念になるための努力をしなさいといわれているのでもありません。阿弥陀仏の本願を、疑い無く聞き入れなさいといわれています。

なぜなら、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞くことと、私が自分で称える自力念仏や努力は関係がないからです。念仏を多く称えたほうがいいとか、称えないほうがいいとか、努力したほうがいいとか、しないほうがいいとかいう考えは、すべて自分の行為の多少と阿弥陀仏の救いが関係あるというところから出発しています。

念仏について書きますと、阿弥陀仏の18願で誓われる念仏は、私の行為ではありません。
そこで、親鸞聖人は尊号真像銘文で、このように言われています。

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文・本・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

http://1wv.j2.sl.pt

「乃至十念」という念仏は、阿弥陀如来の本願によって成就した南無阿弥陀仏を称えることを勧められるのに、数を問わず、時間を定められないことを私に知らせようと思われて、「乃至」と十念の念仏に添えて誓われているのだといわれています。

念仏を何回と称えるとか、いつ称えるということを作り出していくのは人間の行いです。それを問題にしないということは、ここで言われる十念の念仏は、人間の行いではないということです。

本願の念仏を、親鸞聖人は大行といわれ、教行信証に以下のようにいわれています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証・行文類・浄土真宗聖典(註釈版)P141)

http://6pu.fx.sl.pt

念仏は「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」ですから、私の行為ではなく阿弥陀仏のなされる大行です。私が救いの足しにしようとする行いではもともとありません。

南無阿弥陀仏と念仏するときは、これは私の行為であって、これで何とか助かろうとするのではなく、これは「ただ今救う」と呼びかけ、働いておられる阿弥陀仏の本願力だと、そのまま聞いてください。

追記

エントリーを書いている間に、コメントがついていたので、追記します。

りきいし 2012/10/05 17:39
それならば、念仏は称えなくてもよいのですか?

上記にかきましたが、念仏は「往生の助けになる私の行」ではなく、「本願の行・大行」です。これは阿弥陀仏の喚び声であるとそのまま聞いて念仏してください。

考えてみると阿弥陀仏の本願は「信楽の心を得た人を必ず往生させる」「本願を信じて念仏する者を必ず往生させる」であり「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願」でないのではないでしょうか。(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2012/10/04 09:49
 質問があります。宮田さんはいつも、阿弥陀仏の本願は今必ず私を救い取る本願であると言われています。でも考えてみると阿弥陀仏の本願は「信楽の心を得た人を必ず往生させる」
「本願を信じて念仏する者を必ず往生させる」であり「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願」でないのではないでしょうか。(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121003/1349254153#c1349311754

たかぼー 2012/10/04 13:19
そうなんですよね。「只今救う」という本願を聞いて、これに疑いを持たない人にとっては「往生は弥陀任せ」となりますが、疑いを持つ人にとっては「往生は不定」の思いになるでしょうね。だから、「ただ今信楽させる」という誓いではないと思ってしまうのでしょうね。しかし、弥陀は衆生を一切差別せずに本願念仏をひとしく回向し、念仏称えてくれよと願われているのですから、あとは、それを聞いた私が弥陀のその願心とともに念仏を受け入れられるかどうか、でしょうね。受け入れられたら、私にとっても「ただ今のお救い」に遇えたということになりますよね。ほんのささいな違いが大きな違い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121003/1349254153#c1349324353

アドウチさんが言われるように、阿弥陀仏の第十八願は「本願を信じ念仏するものを必ず仏に生まれさせてみせる」という内容です。それに該当するのは、尊号真像銘文の以下の部分になります。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

http://1wv.j2.sl.pt

次にアドウチさんの言われている「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願ではないのでは」に関係するところは、同じ尊号真像銘文での、「至心信楽」の解説の部分を紹介します。

信楽とは、もともと阿弥陀如来の心です。私の心ではありませんから「凡夫自力のこころにはあらず」と尊号真像銘文に書かれています。

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P643)

http://1wv.j2.sl.pt

私を必ず浄土に生まれさせ、仏にすることに全く疑い無い阿弥陀仏の至心信楽を、私がそのまま聞き入れたことを信心といいます。

そこで、上記の尊号真像銘文では「わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり」といわれ、阿弥陀如来の真実の誓いを疑い無く受け入れなさいと、誓われている本願だといわれています。
「信楽の心にしてみせる」というと、何か自分の心が変化していくような語感がありますが、そういう意味では確かにいわれていません。「阿弥陀如来が、どうか私の本願を疑い無く聞き入れてください」と誓われているということになります。

その本願が成就して、阿弥陀仏となられたのが今の阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏を、親鸞聖人は、「本願招喚の勅命」といわれています。その大悲招喚の声を、善導大師は二河白道の譬で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(教行信証信文類 大信釈 引文・浄土真宗聖典(註釈版)P224)

http://2jq.pp.sl.pt

といわれ、親鸞聖人も教行信証に引文されています。

阿弥陀仏の本願は、ただ今私に向かって「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と招喚の声をかけておられます。そのことを、ブログでは「ただ今救う本願」「ただ今救うと呼びかけられています」と書いています。

「本願を信じ念仏するものを必ず浄土往生し仏に生まれさせる」という阿弥陀仏の本願は、現在南無阿弥陀仏となって「その私の本願をただ今疑い無く聞き入れなさい」と呼びかけられているので、それを疑い無くただ今聞いたことを信心といいますから、そのことを「ただ今救う本願ですからただ今聞いてください」と書いております。

長々と説明しましたが、意味を書くとこういうことになります。

「すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです」についてのコメントと追記

「南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか?」(ぱるるさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄から、抜粋したものと、それに関連して追記したものをエントリーします。

こむら 2012/09/25 17:15
yamamoyamaさんへ

>すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです。

まだいまいちわかりません。

私が名号を聞かなければ、阿弥陀仏も私を往生させることはできないのですから、名号を聞くという私の行為は必要なのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348560913

yamamoya 2012/09/25 17:51
こむらさん

「聞其名号」といわれる「聞」については、親鸞聖人は「聞というは衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。」と定義なさっています。私の「聞くという行為そのものを」聞といわれているのではありません。もし、「聞くという行為」を「聞」としますと、私が聞くという私の三業を加えた結果として救われることになるので、すべて他力によって救われるということになりません。
「聞其名号」の「聞」は、上記にあげた親鸞聖人の定義にしたがうと、私の計らいを差し挟まずに本願の仰せを受け入れたことをいいます。そこで蓮如上人は「一心に弥陀に帰命」とか「弥陀をたのむ」と表現されたのが「聞」です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348563096

こむら 2012/09/26 03:45
なるほど。

「聞」というのは、まだ聞いていない名号をこれから聞くという「聞」ではなく、すでに名号を聞いている状態のことを「聞」と言われている。

そういうことですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348598744

yamamoya 2012/09/26 04:51
こむらさん

「聞即信」の言葉のとおりで、聞とは信心をあらわすことばです。言われる「すでに名号を聞いている状態(信)」のことです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348602676

ここから、追記として書きます。

「聞其名号」とも言われるので、「聞く」という行為にどうしても力が入ってしまいます。その結果、「真剣に聞かねば」「どのように聞いたらいいのだろうか」と聞き方を問題にしたり、「誰から聞いたらいいのだろう」と知識選びを問題にすることになります。

しかし、よくよく考えると名号を聞いて助かるのですから、聞き方以前にその人が南無阿弥陀仏のことをそれほど信用していなければ意味のないことになります。

阿弥陀仏の本願はただ今救う本願であるということを、信じているからこそどこかの法話に足を運んだり、御聖教を自分で読んだり、念仏したりします。それでも、「実感がない」とか「ただ今救われるとはなかなか思えない」という気持ちはぬぐえません。そこで、間違いないと思えない法を、聞き方や知識の力を加えることで間違いないのない法にしようと努力をします。

しかし、大前提として法を間違いないものとしていないので、聞いたといっても聞いたことにはなりません。阿弥陀仏の本願も、名号もただの文字やお話ではありません。
親鸞聖人は、教行信証真仏土巻に往生論註を引文されています。

〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。{乃至}いふところの〈不虚作住持〉は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符うて、畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。(顕浄土真実教行証文類・真仏土文類5 真仏土釈引文・浄土真宗聖典(註釈版)P361)

http://6us.t0.sl.pt

ここで「不虚作住持功徳成就」とは、阿弥陀仏の願力は虚妄なものではなく衆生を完全に救い遂げるものであるという意味です。
ですから「願徒然ならず、力虚設ならず」といわれています。阿弥陀仏の願いとっても、いたづらことになるようなただの努力目標でも、ただ願っているだけのものではありません。本願力も、実際に私を助ける働きがあるもので、「ほんとうにただ今助けられるのか?」と疑念を差し挟むようなものではありません。その本願力は私に向けられているものですから、私と関係ない方向に働くことはありません。
五劫の思惟と兆載永劫の行によって、「力願あひ符うて、畢竟じて差はず。」願いと力がぴったりと一致して、少しも食い違うことがありません。そのことを本願成就といいます。

そういうものが本願力であり、南無阿弥陀仏です。私を救う法です。それを聞いたのが信心というものです。そのような本願力が、現在私に働いているからただ今救われます。ただ今救う本願を、ただ今聞いて下さい。

「南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか?」(ぱるるさんのコメント)

ぱるる 2012/09/24 12:13
南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか。
「わたし」は聞くことができません。
何故なら「わたし」が聞こうとする時点で自力になってしまうからです。
聞くことが(出来る・出来ない)と思うのは私の側の考えで、阿弥陀仏の仰せはただ聞けばいいということならば、一体誰が南無阿弥陀仏を聞いていることになるのでしょうか。わたしでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120922/1348261902#c1348456433

たかぼー 2012/09/24 17:28
以前にオーボイドという人も、同じようなことを言っていましたね。それは別にして、大経下巻の「聞其名号信心歓喜」は諸有の衆生について言われたことです。あなたは諸有の衆生に入らないのでしょうか。問題は聞く中身です。名号を聞くとは如来の願力に誤りのないことを聞く、ということです。聞く中身を間違えていては聞いたことになりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120922/1348261902#c1348475337

阿弥陀仏の仰せを聞くというのは、「私という主体」が聞くということではなく、「私を場として本願力が働いて下される」ということです。
あくまでも主体は阿弥陀仏です。阿弥陀仏の本願力を光明ともいわれますが、光明が私に届いたというときは、届いた私が何かをしたということではなく、光明が私に届いたといいうのと同じことです。しかし、届いた光明は私に届けられているので、その光明は私に働きます。

そのことをお軽同行は

おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから

と言われました。

ハイの返事も向こうからというのは、私の方で挟む行為は一つもないことを言われています。すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです。
ただただ、ただ今救うの仰せをそのまま受けたのが「聞いた」といわれることです。

「助からなくて当然」は間違いです。(頂いた質問)

「本願を聞いて疑い無い」のが信心だと聞きますが、本願を聞いた上での疑いというのがよくわかりません。この疑いが晴れなければ救われないとすれば、疑いを感じていない私は救われないように思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、「お前をただ今救う」という本願です。その本願を聞いた疑いは、「『お前をただ今救う』なら、どうして私は救われていないのか?」となります。

言葉を変えれば「助かって当たり前なのになぜ私は助からないのだろうか?」という疑いです。

この文章を読まれている方の中には「助からないのが当然」という前提で法を聞いておられる方もおられると思います。「堕ちて当然助かれば不思議」という言い回しは私も昔はよく聞いていました。そのため、「地獄に堕ちて当然の私がどうしたら助かるのだろうか?」と、地獄に堕ちない手段を探すような考え方になっていました。その考え方の全体は、前述した「堕ちて当然」です。

しかし、阿弥陀仏の本願の生起本末を聞けば、法蔵菩薩として「ただ今救う」と誓われた誓願はすでに成就して阿弥陀仏となっておられます。その本願成就の上から言えば、私が助からない道理はありません。「助かって当然、堕ちれば不思議」なのが法の上からいえることなのです。

法の上からいえば、当然助かるように成っているその働きを、親鸞聖人は「自然」と言われました。

「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。
「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。(正像末和讃・自然法爾章)

http://1wv.1s.sl.pt

自然の「自」とは、私(自分)という意味ではなく、阿弥陀仏自らということです。「然」はしからしむと読む言葉で、そのようになさしめるということです。阿弥陀仏の本願は「ただ今救う」という本願ですから、私が「堕ちて当然」と思おうが思うまいが関係なく、私を救うようになっているということです。
それを「もとよりしからしむる」といわれています。

すでに阿弥陀仏という仏になられてから、私を助ける法はすでに完成しており、私は「ただ今助かる」法があるのです。その本願を聞けば、「助かって当然ならなぜ助かっていないのか?」という疑問が出てくるのではないでしょうか?

法に向かうといっても「堕ちて当然」と思っているのは、そもそも法を聞いていないということになります。また、「堕ちて当然」「助からなくて当然」と思っているから、「現在助かっていないこと」に疑問が起きないのはまた当然です。何十年聞いても救われないという事実に全く驚きも疑問も起こさない人もいますが、それは「助からなくて当然」「助かることは滅多にない」という大前提があるからです。

その「助からなくて当然」という大前提こそが、本願を疑っているということです。

阿弥陀仏の本願はただ今救う本願であり、それはすでに成就しています。ただ今救われるのが法の上から言えば当然のことです。ただ今救う本願をただ今聞いて救われてください。

「信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。」(がくとさんのコメント)

がくと 2012/09/07 03:04
「必ず助かると思え」「のような考えで法を聞くべきではない」と仰っていますが、
助かるには私の側の思い、言葉を変えると「信じる心」が必要ということと理解しますが、
片や「私の側で添えるものは何もない」ともよく仰っています。
信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120906/1346921035#c1346954690

信心決定にとって必要な心というものは、ありません。ないというのは、「これがなければ信心決定できない」と阿弥陀仏が要求されているものはなにもないという意味です。とはいっても、全く仏法を聞く心が生涯起こらず、一度の念仏も称えない人を救うという本願でもありませんので、聞法心は必要です。

それに対して、信心決定にとって必要でない心には、本願を疑う心です。エントリーに書いた、「救われるかどうかわからない」「救われる可能性は限りなくゼロに近い」と本願を疑う心です。
しかし、本願を疑うといっても、上記のようなものばかりではありません。「真剣に聞こう」という「強い聞法心」も本願を疑う心です。

なぜなら、「真剣に聞いたらなんとかなる」と思えばこそ真剣に聞こうとするのですが、それは「真剣に聞くものでなければ救ってくださらない」と阿弥陀仏を疑う心になるからです。

とはいえ、「真剣に聞かねばよいのだろう、待っていればよいのだろう」と考えるのも、「そのようにすれば救ってくださるだろう」と本願を計らっている心ですから捨てものです。

結論から言えば、現在阿弥陀仏の救いを聞こうという心の人にとって「必要な心」というのはありません。反対に「必要でない心」は、いろいろとあります。

しかし、それを「捨ててから」聞こうと思えば、それもまた自力の計らいですからそれも捨ててそのまま阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われてください。必ずただ今救われます。

「阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。」(香取さんのコメント)

香取 2012/09/02 03:30
質問させていただきます。阿弥陀仏の本願に救われたいと思い、念仏をとなえたり、仏教の本を拝読したりしています。しかし、自分の思いや理解を深めることに一生懸命でないかと最近思われてきます。方向が逆になっているのかも知れません。阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120901/1346486883#c1346524216

香取さんが言われるとおり「自分の思いや理解を深めること」は、阿弥陀仏ではなく自分へ自分へと心を向けているので方向が反対です。

ただ、阿弥陀仏が私に働きかけて下さっていることは実際そうなっていることですから、「どう考えたらいい」という性質のものではありません。何か今まで見えなかった力が「考え方」を変えることで見えるようになるというものでもありません。

このようにお尋ねになるのも、なにか「きっかけ」が欲しいという思いからではないでしょうか?しかし、「きっかけ」と言っても本質的には「方法・手段」のことですから、そんなものは阿弥陀仏の救いにはありません。私の側で用意しなければならない「方法・手段」なく救われるように、阿弥陀仏は本願を建てられました。

香取さんからすれば、念仏を称えたり、仏教の本を読むのは、「どこかに救われるきっかけ」を探している行為となります。私の方から手を出すのではなく、阿弥陀仏から出されている法をそのまま聞くのが救いです。

そのことを御文章2帖目7通から引用します。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。(御文章2帖目7通 五戒・易往)

http://278.dj.sl.pt

智恵や才学、お金、善悪、性別も関係なく、ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰することであるといわれています。

そこで、その正行に帰するとはどういうことなのかについて、続けて書かれています。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。(御文章2帖目7通 五戒・易往)

「なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。」です。
こちらの側でなにも用意するものはありませんから、「なにのやうもなく」と言われています。私の方に何も条件を付けられないので「あら、やうもいらぬとりやすの安心や」と続けて書かれています。

香取さんのお尋ねで「どう阿弥陀仏を思ったら」ということをいわれるのは、「ただ今救う本願」と思えないので少しでも阿弥陀仏のことを心にかけようとされているからではないかと思います。

さらに言えば「方向」と言われるのも、阿弥陀仏の救いをただ今ではなく少し未来に置いておられるのではないかと思います。そのように、自分と少し離れた場所から私に向けて働きかけられるような本願ではありません。南無阿弥陀仏はただ今私に働いておられます。ただ今ということは、今私がいるこの場所ということです。「こんなところにいるはずもないのに」という所にでも、私に常に呼びかけられる声が南無阿弥陀仏です。

そういう南無阿弥陀仏ですよと教えられているのが、お釈迦さまであり親鸞聖人です。
心がけるより先に、ただ今救う本願を聞いてただ今救われて下さい。

「因果の道理を学ばなければ救われませんか?」(頂いた質問)

因果の道理は仏教の根幹である」と聞かされてきました。仏教の根幹というくらいですから、これを知らなければ何も始まらないように思います。因果の道理を学ばなければ救われないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いに、「まず因果の道理を知らねば」というものはありません。もし、「まず因果の道理を知らねば」ということならば、因果の道理を聞いている人もあれば、聞いていない人もあるので、世の中に「ただ今救われる人」と「ただ今救われない人」の二通りがあるということになってしまいます。

しかし、そんな二通りの人はありません。なぜなら、阿弥陀仏の救いは「まず私が○○せねば」というものは一つないからです。そのように「条件」を設定すると、どれだけ素晴らしい浄土があってもそこへ往生できない人が出てきます。それは阿弥陀仏の願心に合いません。

唯信鈔から紹介します。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。(唯信鈔)

http://684.8t.sl.pt

上記にあるような「孝養父母」「読誦大乗」「布施・持戒」「忍辱・精進」など、どれかをしなければ往生できないとなれば、必ずそれが出来ない人が出てきます。

お尋ねの「因果の道理を学ばねば」と言ったところで、臨終に初めて仏法を聞こうという心が起きた人に「まずは因果の道理」を聞く時間はありません。そうなれば、本願に漏れる人がでてきます。


そこで、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏一つで救う、念仏一つで救うというという本願を建てられました。

 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。
(略)
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。(同上)

第十八願は念仏往生の願ともいわれます。念仏で往生させる本願だからです。どんな人でも称えられる姿になって、南無阿弥陀仏となって私に働いて下さるのですから、私の方で何かをしなければならないということはありません。


もし「まず因果の道理を学ばねば」念仏が口から出てこないということならば、因果の道理を知らない人は救われないということになりますが、そんなことはあり得ません。

ただ今私に働いて下さっている南無阿弥陀仏は、私だけでなく「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん」と言われている通りです。もれるひとは一人もありません。

ただ、南無阿弥陀仏一つで私を救って下さいます。ただ今本願力に救われて下さい。

本願と信心の沙汰について(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2012/08/25 02:31
 本願は、私の心の状態に関係なく救って下さると聞いていますが、その反面 信心の沙汰
をして自分の心をありのままに打ち出すことが大事だとも聞いております。
 この前者と後者の違いをどう解釈すればいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120823/1345710792#c1345829516

信心の沙汰とは、「自分の心を阿弥陀仏の救いに合う状態にもっていく」とことを目的にしているものではありません。整体の人に、骨格のゆがんだところを直してもらうようなものとは違います。自分で勝手に「これで信心をえた」と思っている信心が間違いかどうかを互いに沙汰するのが、信心の沙汰の目的です。

一 仏法の由来を、障子・かきごしに聴聞して、内心にさぞとたとひ領解すといふとも、かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづねて、信心のかたをば治定すべし。そのままわが心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし。ちかごろこれらの子細当時さかんなりと云々。
一 信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文章4帖目7通 六か条)

上記の御文章では「信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて」とあります。(自称)信心をえたなら、それをいくたびも人に尋ねなさい。なぜなら、ちょっと「障子・かきごしに」聞いて「内心にさぞとたとひ領解」したとしても、「わが心にまかせば、かならずかならずあやまり」になるからです。

阿弥陀仏の救いは心の状態に関係なく救ってくださいます。しかし、「これが救いだ」「これが信心だ」という人は、自分で思ったとおりになったことを「信心だ」と思い込もうとしてしまいます。いわゆる一人合点になっては、信心ではありませんので、よくよくその沙汰をせよといわれます。

では、自称信心をえた人でなければ信心の沙汰をする必要がないのかといえばそうではありません。過去聞いたことも含めて、わからないところ、不審なところは考えてもわらないところは「わからない」とそのまま言うのも信心の沙汰です。そもそも「善をしなければ救われない」と思い込んでいる人などは、本願はもともとそういうものではないということを、よく沙汰されればいいと思います。

「計らうのは自力、その計らいを捨てることも阿弥陀仏の働きなら、救われた人とそうでない人の違いは何のでしょうか。」(bsfさんのコメント)

bsf 2012/08/24 19:10
阿弥陀仏の呼び声を聞こうと何かしようとするとすべて自力。
かと言って何もしなければ、ほんとに何もしてないだけ。
というよりも、救われるために何もしようとしないのもやっぱり自力。

自分の計らいをすてて、そのまま聞くだけというのが、こんなにも難しいものなのかと思います。
計らうのは自力、その計らいを捨てることも阿弥陀仏の働きなら、救われた人とそうでない人の違いは何のでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120823/1345710792#c1345803050

阿弥陀仏にすでに救われている人と、そうでない人の間に何か努力の量や、学問の有無、無常や罪悪を見つめていたとか、見つめていなかったという違いはありません。
お尋ねの趣旨からいうと、救われている人は法を聞いている人です。救われてない人は、法を聞かずに自分の心に向き合っている人です。
なぜ法を聞かずに自分の心に向き合うかといえば、仏智の不思議を疑っているからです。

(67)
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける(正像末和讃)

bsfさんが、なにかしても自力、しなくても自力と自力と向き合っておられるのは、上記のご和讃でいう「仏智の不思議をうたがう自力諸善のひと」ということになります。なぜ、そのようになるのかといえば「自業自得の道理」いわゆる「因果の道理」を阿弥陀仏の救いにあてはめて考えているからです。
自業自得の道理からいえば、自分が何かしないことには自分に得るものはなにもありません。そこで、自力を捨てねば救われないと聞くと、「何かをしたから」自力が捨てられるのではないかと考えてしまいます。

しかし、阿弥陀仏の本願は、自業自得の道理ではなく救済の道理です。「お前を助ける」という本願です。かりに自業自得の道理でいえば、私が何かをしないと絶対に助からないことになります。阿弥陀仏の本願は、救済の道理ですから、「お前を助ける」本願を聞くだけです。私のほうでは特になにもしておりません。

本願を聞かずに、どうしたらいのかという「自業自得の道理」の発想で計らいばかりをしていたら、いつまでもそこにいるだけです。

最後にお軽さんの歌からみてみます。

聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな
まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな
自力はげんでまことはきかで 現世いのりにみをやつす
思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん
領解すんだるその上からは ほかの思案はないわいな
ただでゆかれるみをもちながら おのがふんべついろいろに
おのがふんべつさっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ(お軽同行の歌)

「まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな 自力はげんでまことはきかで」とありますが、自力が捨てられないと悩む人は努力が好きな人でしょう。しかし、阿弥陀仏の救いに努力を持ち込む必要はありません。救われる前に努力しなければとがんばるのは「まこときくのはおまへはいやか」とお軽さんがいう通りです。
「思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん」ですから、いわば今聞かなかったらあれころ計らったといっても手遅れになるということです。
ただ今救う本願を聞けというのが、阿弥陀仏の勅命です。どうしたら自力が捨てられるのかという分別もふくめてまるごとやめて、弥陀の思案にまかせてください。

「十刧安心との違いを説明していただけませんか。」(田中屋さんのコメントより)

田中屋 2012/08/22 20:01
十刧安心との違いを説明していただけませんか。
よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120822/1345627431#c1345633265

十劫安心とは何かについて最初に書きます。御文章に十劫安心について以下のように書かれています。

「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。
これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。(御文章2帖目11通)

http://goo.gl/Nli49

そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。(御文章1帖目13通)

http://goo.gl/KEWK4

十劫安心は、阿弥陀仏が十劫の昔に仏になられて本願が成就したことを知って忘れないのが信心であるという異安心のことです。
一言でいえば、「本願を知って忘れないのが信心」と思っている異安心です。いわゆる「知って忘れない」というだけで、弥陀に帰命したということがないので、無帰命安心ともいわれます。

そこで、この十劫安心に対して上記に「弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし」(2帖目11通)「他力の信心といふいはれをしらず」(1帖目13通)といわれています。

そこで御文章ではくりかえし「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのむ」のが信心であると書かれています。

そこで田中屋さんのコメントでは、前回のエントリーに書いた内容が十劫安心とどう違うのかというお尋ねでした。

あたらめてエントリーを読み直しました。南無阿弥陀仏と私についていろいろと書きましたが、帰命するということについては特に書いていませんでした。そういう点でわかりにくい表現になっていたことはお詫びいたします。

後生助けたまへと一心に弥陀をたのむ相が、前回のエントリーに紹介した才市さんの歌です。
私と阿弥陀仏の間には、なにも隔てるものがありません。「知って忘れない」というような、自分の考えや記憶に頼るものではなく、現在ただ今南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられることをそのま聞いているのが信心です。

「知って忘れない」という十劫安心とは違います。

どうしたら信心決定できるかと考えるのはよくないと聞きますがなぜでしょうか?(頂いた質問)

どうしたら信心決定できるかと考えるのはよくないと聞きますがなぜでしょうか?悩んでこその聞法求道ではないでしょうか?(頂いた質問)

どうしたら、どうしたらと心配したり悩んだりすることは決してよいことではありません。
お尋ねの文章から理由を二つ述べます。

  1. 心配するのは私ではなく阿弥陀仏の仕事だから
  2. その阿弥陀仏の仕事はすでに完成しているので、今更私が心配してもすでに時機を逸しているから

1.心配するのは私ではなく阿弥陀仏の仕事だから

私が修行をして浄土往生の身になるということならば、「どうやったら浄土に往生できるのか」という心配や悩みも大いに意味のあることでしょう。しかし、阿弥陀如来の仕事ですから私が心配しても意味のないことです。また、心配した方が早く救われるという本願でもありません。

2.その阿弥陀仏の仕事はすでに完成しているので、今更私が心配してもすでに時機を逸しているから

阿弥陀仏の本願が、まだ成就していない時機だと仮にした場合は、私が心配するのもわからないではありません。しかし、すでに成就しているのですから、私から阿弥陀仏に「はやく本願を成就してもらえないでしょうか」と心配するのは時機が外れています。
現在は、阿弥陀仏から私へと本願力によって南無阿弥陀仏を差し向けておられています。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・六字釈)

http://goo.gl/nf036

阿弥陀如来は「すでに」本願を起こされて、私が浄土に往生する行を私に与えて下さっています。

そのため、私から阿弥陀仏という方向の考え方は全く意味がありません。阿弥陀仏から私に、ただ今差し向けられているのが本願力ですから、阿弥陀仏から私へなったときには私の方で心配したり、悩んだりする意味はありません。

また、悩んでこそ求道の出発点とか、やっとスタート地点に立っているというような発想は、根本的に私から阿弥陀仏という方向でしか考えていないので、その考えは直ちに捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心と聞きましたが、そのように聞いているつもりですがこれでよいのでしょうか?(頂いた質問)

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心と聞きましたが、そのように聞いているつもりですがこれでよいのでしょうか?(頂いた質問)

信心の定義は、本願を聞いて疑い無いことですが、そのように聞いているつもりだから大丈夫だろうと、自分の聞き方に目を付けて安心するのは信心とはいいません。

このように確認されるのは安心したいという気持ちが強いからだと思います。しかし、安心感や喜びは信心そのものではありませんので、それを「信心」と想定して求めていってそこにはなにもありません。

同じような考えから、誰から聞けば良いのだろうということを問題にする人もあります。このように聞く「人」を問題にするのも、自分自身の安心や幸福感を求めるからです。なぜなら、本願を聞くよりも、安心したい心が先にあるから、より直接的に目に見える人からなにかを与えて貰おうとします。

そのため、本願を聞くと言っても、人から話を聞くようにしか思えません。そこからさらに、知識からなにか特別な言葉を聞くことのように想像していく人もあります。

本願の仰せはただ今救うの仰せ以外にありません。誰から聞くのでもなく、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いたのが信心です。人に確認して認可をもらうようなものではありません。

「いろいろとお話を聞いて、これで信心決定なのかと思いますがどうでしょうか?」(頂いた質問)

いろいろとお話を聞いて、これで信心決定なのかと思いますがどうでしょうか?(頂いた質問)

私に信心決定しているか否かを尋ねられても、私にはわかりません。逆に、私が「それが信心ですよ」と認定すれば、土蔵秘事・知識帰命と同じになってしまいます。加えて言えば、私が仮に認定したところで、それが信心決定ではありませんし、何の意味もありません。


また、そのように人に尋ねる心境を考えて見ると2つあります。

一つは、誰かに認定して貰わなければ不安な信心である。

二つは、自分で「信心」というものを事前に想定して、それにあった体験をした。


どちらの場合も、自分の心を基にして信心を造っているという点で共通しています。
信心とは、自分の心が安心したことでも、想像していた体験をすることでもありません。南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P677

本願の名号を聞くとは、本願を聞いて疑う心のないことです。誰かに「それで大丈夫だ」と認めて貰ったことではありません。また、事前に自分が想定した通りになることでもありません。もし、自分が想定した通りになるのであれば、それは仏の願いではなく、私の願いです。私の願いが叶ったのことを信心とはいわないのです。

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心ですから、ただ今救うと聞いて下さい。