安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「私は阿弥陀仏の本願を全面的には信頼していないから、おまかせする気になれないのだと思います。そしてこれは「三定死」のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれないのかとも愚考します。」(猿松さんのコメントより)

猿松さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。また、abcさんもコメントを頂き有り難うございました。

猿松2019-03-02 14:02:25
(略)
確かに、「蓋ある水に月は宿らじ」で、今救われていないのは自分の側に問題があり、その蓋を開けるにはどうすればよいのかと「手段と正解」を探しておりました。

御教授を何回も聞かせていただきましたが、難解です。正直何となくとしか理解できておりません。だから、ついつい念仏一つ称えるにしても「真剣に称えればいいのか」とか「無念無想で称えればいいのか」とか「計らいを交えずに称えればいいのか」等という計らいを交えてしまいます。

つまる所、私は阿弥陀仏の本願を全面的には信頼していないから、おまかせする気になれないのだと思います。そしてこれは「三定死」のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれないのかとも愚考します。

しかし先生も「南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏として称える」としか説かれようがないということは私も理解しているつもりです。

なかなか道は遠いように思われますが、しかし一瞬先かも知れません。それが他力の救済だと考えるからです。
再びとりとめのないコメントとなってしまいましたが、またご指導いただければ幸甚でございます。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/01/042640

abcさんからもコメントを頂いており、それについてのコメントもありますが、全文はエントリーの最後に掲載しております。

猿松さんの悩まれていることは、「疑う自分に問題がある」「疑うことが止められない」という2点になるかと思います。
それぞれについて、以下書いていきます。

「疑う自分に問題がある」

この点については、正信偈にある通りで、それに関してはその通りです。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」といふは、生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。(正信偈大意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1038)

https://bit.ly/2XvJPxz

こちらにも「このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり」とありますから、迷いを重ねるのは疑いがあるからです。
しかし、そこで「疑いを止められるか?」という問題が出てきます。

「疑うことが止められない」

猿松さんが、コメントに書かれている通りで、自分でどうやったとしても自分で疑いを止めることは大変難しいことです。出来ないことです。それは、「考えるな」というと同じことで、先のラジオの中でも言いましたが人間の脳は「○○を考えるな」と言われた瞬間に「○○」を考えてしまうものです。「ピンクの象を想像しないで下さい」と聞いた瞬間に、頭の中に「ピンクの象」は浮かんでいます。
「疑い」を、一つの「考え」「気持ち」とすると、それは出来ないことになります。


そこで猿松さんは「『三定死』のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれない」のではないかと書かれています。しかし、これは「病気でもう長くないと宣告されたら聞けるかも」という考えと似ています。「もう考えたくない」から、「考えられなくなればいい」という状態を目指していくようになっておられるのだと思います。


しかし、「無疑」というのは「考えなくなること」ではありません。救われても考えることはできます。
では、本願に対する疑いとは何かといえば「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず(歎異抄)」について、自分の方で「自分は○○(老だから、少だから、善人だから、悪人だから)だから救われない」と阿弥陀仏が選ばれない(差別)されないことを、自分で差別をすることをいいます。阿弥陀仏が見捨てられないのに、「いや自分は駄目です」と自分を見捨てることをいいます。


そんな私に対して阿弥陀仏は「自分を見捨てるな」とは言われません。そんなことを言われても、自分を見捨てた人には何の意味もありません。


阿弥陀仏は「私は見捨てない」「私を信じななさい」と呼びかけられています。それを、正信偈大意では「また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり」と言われて、先の歎異抄の続きには「ただ信心を要とすとしるべし」と言われています。
疑うことは止められないなら、本願を信じなさいということです。

まとめ

自分で「どうすれば疑わないようになれるか」という点での正解はありません。なぜなら、「正解にたどり着いた人を救う本願」ではないからです。
救われるとは「私を救うことに全く疑い無い阿弥陀仏の仰せを聞く」以外にありません。猿松さんは、自分の力ではどうにもならないのではないかと、自分を疑っておられるのではないかと思います。自分に対する疑いを晴らすことは自分にはできません。しかし、本願に対しての疑いは、「私を見捨てないと言われる本願を信ずる」ことで晴れます。
「自分を信じる」のではなく「阿弥陀仏を信じる」ということです。言い換えれば「自分で見た自分を信じる」のではなく「阿弥陀仏が御覧になったように自分を信じる」ということです。阿弥陀仏は、私を「もう助けようがないもの」と見捨ててはおられません。南無阿弥陀仏とは、私をたのめ必ず救うと喚びかけておられます。
ただ今救うの南無阿弥陀仏に、ただ今救われて下さい。



猿松さんのコメント全文

猿松2019-03-02 14:02:25

宮田先生

ネットラジオ版に取り上げていただきありがとうございます。
確かに、「蓋ある水に月は宿らじ」で、今救われていないのは自分の側に問題があり、その蓋を開けるにはどうすればよいのかと「手段と正解」を探しておりました。

御教授を何回も聞かせていただきましたが、難解です。正直何となくとしか理解できておりません。だから、ついつい念仏一つ称えるにしても「真剣に称えればいいのか」とか「無念夢想で称えればいいのか」とか「計らいを交えずに称えればいいのか」等という計らいを交えてしまいます。

つまる所、私は阿弥陀仏の本願を全面的には信頼していないから、おまかせする気になれないのだと思います。そしてこれは「三定死」のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれないのかとも愚考します。

しかし先生も「南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏として称える」としか説かれようがないということは私も理解しているつもりです。

なかなか道は遠いように思われますが、しかし一瞬先かも知れません。それが他力の救済だと考えるからです。
再びとりとめのないコメントとなってしまいましたが、またご指導いただければ幸甚でございます。


Abc先生

いつも私のコメントに目を通していただきありがとうございます。「横槍」大歓迎でございます。

今の私の状態は、正信偈でいえば「万善自力貶勤修」はわかるが「円満徳号勧専称」がわからないといったところです。
「円満徳号勧専称」と聞かされれば、「お念仏だけ称えればいいのか」とか「二六時中称えればいいのか」とか「一心不乱に称えればいいのか」とか、ついつい「してはいけないこと」をしてしまいます。

「何のやうもなく」といわれますが、この「何のやうもなく」がわからない、だからこういう時に限って自力頭がフル回転して「正解」を探し出そうとジタバタしてしまいます。

後、「行知」についてですが、「これにも真仮二種あり、真は「称名念仏する」であり、仮とは「九十五種」であります」とありますが、この「九十五種」は九十五種の邪道つまり外道のことでしょうか? それとも聖道門や十九願の諸善万行のことでしょうか?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/01/042640

「氷多きに水多し」(高僧和讃)の「氷と水」は「氷上燃火の喩え」の「氷と水」と違うでしょうか?(園児さんのコメントより)

園児さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
また、返事の記事作成が遅くなり申し訳ございませんでした。abcさんにも、コメントを書いて頂き有り難うございました。

園児
〔略)
罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し  (高僧和讃)

高僧和讃の曇鸞讃にあるので曇鸞大師の御著書と関連があるのだろうと思い、浄土論註(下)を拝見しましたら

「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」

という話に行き当たりました。氷上燃火の譬えというそうですが、氷と水が出てきて氷が解けて…と大変近い話と思いました。ただ、ご和讃と違うのが火が出てきてそれが水により消えてしまうという下りです。ご和讃と同様に氷が煩悩、水が功徳と考えると、ご和讃には出てこない火の存在は何を譬えられたものでしょうか?氷と水を含めて親鸞聖人と曇鸞大師では譬える対象が違っていたりするのでしょうか?

ご解説いただければ幸いです。 よろしくお願いします。
(コメント欄より)

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/01/27/070602

abcさんもコメント欄で書かれていますので、そちらも御覧頂ければと思います。
そこで、園児さんのお訊ねについて書いていきます。


先に、結論だけ書きますと、上記のご和讃は、園児さんが引用された浄土論註の部分から出されたものではありません。
では、どこから親鸞聖人はこのご和讃を書かれたのかを書いていきます。

「こほりおほきにみずおほし」のご和讃について

お尋ねのご和讃ですが、これは、直前のご和讃と連なるものなので、そこから続けて引用します。

(39)
無碍光の利益より
 威徳広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ
 すなはち菩提のみづとなる
(40)
罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし
(41)
名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり
(42)
尽十方無碍光の
 大悲大願の海水に
 煩悩の衆流帰しぬれば
 智慧のうしほに一味なり
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P585)

https://bit.ly/2Bfaaq4

この4首のご和讃で、一続きのものと成っています。
内容を大まかにいいますと、煩悩しかない私のような凡夫は、阿弥陀仏の本願力(名号・南無阿弥陀仏)によらねばすくわれないということを言われています。



以下、現代語訳を書きます。

(39)
無碍光の人々を救おうとされるはたらきによって、
すばらしい説くのある大きな他力の信心をえて、
必ず氷のような煩悩も融け、
そのまま功徳に満ちた水のようなさとりとなる
(40)
罪やさわりが功徳のもとになる。
氷と水の関係のように、
氷が多ければ水が多く、
さわりが多ければ功徳も多い。
(41)
名号という不思議な海水には、
五逆罪の者と教えを謗る者という死骸もとどまらない。
衆悪というすべての河川もおまかせすれば、
功徳という潮と一つの味になるのである。
(42)
あらゆる世界に満ちている無碍光仏の仏の、
大きなお慈悲の本願力という海水に、
煩悩というすべての流れもおまかせすれば、
智慧という潮と一つの味になるのである。


(39)の和讃に「煩悩のこほりとけ」(煩悩の氷融け)「すなはち菩提のみづとなる」(菩提の水となる)とあります。
それに対応するように(40)のご和讃にある「こほり(氷)」は「煩悩」のことです。そして「みづ(水)」は「菩提(さとり)」のことをいわれています。
そして、上記にあげた4首の連なったご和讃では、(41)(42)は「海水」「潮」という言葉が出てきます。どんなものも海水に入ると一味になるように、どんなものも本願力によって同じように救われるということを言われています。


ですから、今回園児さんが揚げられた(40)のご和讃は、浄土論註では「海」について説かれたご文から作成されたものということになります。

「海」について書かれた部分

そこについて、親鸞聖人は教行信証行巻に浄土論註を引文されています。
ここでは、その前に親鸞聖人が書かれている部分と併せて紹介します。

 「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版教行信証行巻P197)
(現代語訳)
「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。
 この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。
これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。

https://bit.ly/2D4jJIh

この後に、浄土論註から二つ引文されていますが、その一部を紹介します。

【94】 またいはく(論註・上 八四)、「〈海〉とは、いふこころは、仏の一切種智深広にして涯なし、二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず、これを海のごとしと喩ふ。
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版教行信証行巻P198)

(現代語訳)
また次のようにいわれている(往生論註)。
 「<海>というのは、すべてを知り尽しておいでになる仏の智慧が、深く広く果てしなく、声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿さないことを、海のようであるとたとえるのである。

https://bit.ly/2WwgCSB

上記にあげたように、「阿弥陀仏の本願力によらねば救われない」ということを、親鸞聖人は曇鸞大師の浄土論註から「海」の譬えを引文されています。そこから、煩悩しかないような者が救われることを、「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と書かれたことからご和讃は作られました。


そこで、(40)のご和讃は「浄土論註」のどこから親鸞聖人が作られたのかと言えば、上記にあげた教行信証行巻の部分からということになります。


ただこの教行信証でいわれる「経に説きて」といわれる「経」は今日でも明確には分からないとされています。


「氷上燃火の喩え」について

次に、氷上燃火の喩えについて書きます。先に書きましたが、(40)のご和讃とは直接関係はありません。


まず、氷上燃火の喩えの意味について、浄土真宗辞典から紹介します。

ひょうじょうねんか 氷上燃火
『論註』(七註126)に出る喩え。往生を実体的な生としか認識できない下品下生の凡夫であっても、名号のはたらきによって往生すれば、浄土の徳によって見生の惑(実の生があるととらわれる心)が消えて無生の智慧へと転じられていくことを、氷の上で燃えている火が、氷を水に変えるとともに、その溶けた水によって自身も消えてしまうことに喩えていう。
浄土真宗辞典


これについて、もう少し補足をしますと、浄土論註では、上記のことについての問答があります。

かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。(略)
問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。(浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P125・浄土論註)

https://bit.ly/2S1NL9W

ここに書かれいる大まかな意味は、「阿弥陀仏の浄土は『無生の生』」である。しかし、それを 理解出来るはそうとう上等な人(上品)に違いない。もし、そうではない人(下下品)ならば、それを受け入れることが出来ないから、救われないのではないか?というものです。


それに対して、答えられた部分に出てくるのが、氷上燃火の喩えです。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。(略)
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。(同上)

大まかな意味は、こうなります。
「それについて答えます。たとえば、ものすごい力をもった宝珠があって、それを濁った水に置けば、水がきれいになるようなものです。(略)
また、氷の上に火を燃やせば、火が強いほど氷が溶けます。そうなると、溶けた氷の水で火が消えるようなものです。どうにもならない者(下下品)は本来の浄土のありかたを知らなくても、南無阿弥陀仏によって、浄土に往生するのだという思いを起こして、浄土に生まれてたいと願うならば、浄土は「無生の生」の領域であるので、実体的な生をみようという迷いは本願力によって消えていまいます。」
と言うものです。


ここでいう「氷」というのは、名号の働きということになります。「火」というのは「煩悩(見生の惑)」ことです。つまり、火(煩悩・見生の惑)が、水に消されるように、名号の働きによって、私の煩悩(火)は消されてしまうということです。ただ、私の力で氷が水になるということを喩えたものではありません。私のようなもの(火)によりそって、働くいて下さる阿弥陀如来の名号(氷)が、やがて水となって火を消して下さるということです。



少し分かりにくいので「無生の生」についても、浄土真宗辞典から紹介します。

むしょうのしょう 無生の生
無生無滅の生のこと。浄土への往生は凡夫が認識するような実体的な生ではなく、消滅変化(迷い)を超えたものであるということ。『論註』には「かの浄土はこれ阿弥陀如来の無生の生なり」(七註123)とある。
浄土真宗辞典

言い替えると、浄土往生とは、私たちが日ごろ考えるような「死んでから、また何かに生まれる」というようなものではないということです。そうなると「そんなの分からない」と私は思います。しかし、そんなものでも浄土往生させて頂けるのは名号のお働きであることをいわれたものが、氷上燃火の喩です。

まとめ

最後にまとめますと、(40)のご和讃は、浄土論註の氷上燃火の喩えから出たものではありません。

ご和讃では
氷=煩悩
水=功徳水(救い)

浄土論註、氷上燃火の喩えでは
氷=本願力
水=本願力
となり、喩えた内容が異なります。

「私は今まで「雑行雑修自力の心をふりすてて」はある程度までは自力の作業だと思っておりました。」(猿松さんのコメントより)

猿松 2018/12/03 14:03
(略)
私は今まで「雑行雑修自力の心をふりすてて」はある程度までは自力の作業だと思っておりました。
つまり「九十五種の邪道を出でて」「聖道門を閣きて」「雑行を抛てて」「助業を傍らにして」と、段階を経て先鋭化していって「一心に」までもっていくといった感じです。
しかし先生の「この領解文は他教他宗徒に言ったものではなく、真宗門徒に言ったもの」「ふりすててとたのみもうして候は同時」とお聞かせいただき、自力の悪あがきは必要ないと思いました。

こちらの状況状態はまったく頓着しなくてよい。老若男女善悪貧富賢愚美醜など一切関係なく、修行や念仏(もちろん自力です)もいらないと思いました。
今まで“念仏には祈願請求の意味はない”“信前であっても御恩報謝の気持ちで念仏する”と聞かされても、どうしても実感として理解できず、「後生御たすけそうらえ」と“お願い”しておりました。

そのような思いをふりすてて、ただ、ただ、“阿弥陀仏の本願の救いはこの通りである”というのを聞かせていただき、 “噫その通りでございました”と領解させていただくこと。だから聴聞が大事なんだなと思いました。

これが今回の聴聞での私の理解です。
あの後、“正定業としての称名念仏”と「たのみもうして候」の関係もお聞きしたかったのですが、それは次の機会とします。
今回の私の理解に修正点等ございましたらご指導いただければ幸いです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181128/1543393640#c1543813430

猿松さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。返信を書くのが遅くなり、すみませんでした。先日は、にしのみや聞法会ではご縁を頂き有り難うございました。
猿松さんの書かれている通りで、「雑行雑修自力の心をふりすてて」と領解文にあることについて、段階的にどんどん捨てていくことではありません。もちろん、その人が救われるまでの過去を振り返れば仏教を知らなかった状態から、仏教を知るようになったとか、聖道仏教を信じていたけれども浄土仏教に転向したとかいろいろとあります。しかし、すでに浄土真宗の教えにあって、聞法をされている人にとっては「九十五種の邪道を出でて」「聖道門を閣きて」は終わった話です。

「自力を捨てて弥陀をたのめ」といわれているのですから、段階的に何かをしていくことではありません。これは、同時のことですから、自分である程度まで自力を捨ててから、その次の段階として弥陀をたのむということにはなりません。

ですから、唯信鈔文意では文章の順番では「本願他力をたのみ」を先に書かれています。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。(唯信鈔文意)浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P699)

https://bit.ly/2Sw0oGj

本願他力をたのむというのは、阿弥陀仏の本願の私を助けるはたらきにまかせることですから、南無阿弥陀仏の仰せにしたがう人は、そのまま自分でなんとかしようという状態を離れています。それを信心といいます。

「自分はまだ○○だから、弥陀をたのめといわれてもその段階にない」という人はいません。南無阿弥陀仏は常に、今の私を救うと働きかけられていますので、ただ今救われて下さい。

「暇さえあれば念仏を称えていますが、未だに助かる気配が致しません。「そのまま聞く」意味がまだ分かりません。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2016/02/18 16:22
記事読ませて頂きました。
暇さえあれば念仏を唱えていますが、未だに助かる気配が致しません。
「そのまま聞く」意味がまだ分かりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160213/1455349018#c1455780167

まず念仏についてですが、回数を重ねれば助かる気配がやってくるというものではありません。

念仏は、一度の念仏に無上の功徳があります。

また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。(選択本願念仏集)

一声一声の念仏に、無上の功徳があるわけですから、何回か称えて初めて無上の功徳が完成するのではありません。心がけて念仏されるのは大変有り難いことです。そこで、その念仏について、一声で無上の功徳のあるものであり、私を往生浄土させるお働きがあります。

そのまま聞くについては、上記の念仏について、「この南無阿弥陀仏が無上の功徳があり、私を浄土往生させるための本願力そのものの働き」と聞くことです。

念仏称えた結果として、無上の功徳が私に与えられるのではなく、一声一声の念仏そのものが無上の功徳です。それをそのまま聞いて救われて下さい。

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)


疑いがなければ信心だと考えて、まず「疑い」から始めて見ようという御尋ねだと思いました。
確かに「疑心」と聞いても、なんとも実感がない時は自分の心の中に「疑心」を探し出して、それを駆除すればよいように考えてしまいます。しかし、そのような考えはしない方がよいです。


なぜなら、「疑心」といわれるのは「本願疑惑」のことなので、本願を横に置いて疑心だけを探そうとしても詮ないことです。


では、阿弥陀仏の本願とはどういう本願かと言えば、今回のお尋ねから言えば「論功行賞の救いではない」ということです。論功行賞とは、功績を論じその程度に応じて賞を与えることです。阿弥陀仏の救いは、そのような「私の頑張りに応じて、褒美として救ってくれる」ものではありません。


兎角、「命がけの求道」とか「真剣な聞法」をして救われようとしてきた人は、どうしても「これだけ頑張ったのだから、阿弥陀仏は救って下さる時に何か一言くらいあるだろう」と期待をしてしまい勝ちです。しかし、「よく求めぬいた」とか「よく聞き抜いた」「よく頑張ったね」と私の苦労を肯定し、その労をねぎらった上で救って下さるようなものなら、それは論功行賞の救いということになり間違いです。


元々私が苦労をしなくてもよいように、南無阿弥陀仏となって、南無阿弥陀仏一つで救って下さる本願です。ですから、よく阿弥陀仏の救いは「無条件の救い」といわれます。「無条件」ということは、私の側に要求される条件は一切ないということですが、言葉を変えれば「褒められること」もないということです。また、「叱られること」もない救いだということです。

確かに、妙好人とか、上上人とか希有人と、褒められると親鸞聖人は書かれています。

この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。(親鸞聖人御消息6浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P748)

http://goo.gl/YfwkNp

このように書かれているお言葉を読むと、褒められたいと期待する気持ちもよく解ります。しかし、それらは南無阿弥陀仏を讃嘆されているのであって、私の頑張りを褒められるのではありません。

しかし、一度褒められることを期待してしまうと、褒められない限りは本願を聞けないような心になってしまいます。この場合の褒められると期待している心は、本願を疑う心と同じ意味になります。

何も「本当だろうか」「今一つ解らない」というばかりが、疑いではありません。阿弥陀仏に褒めてもらえると、自分の努力を手放さず、なんとか認めて欲しいというのも疑いです。

ところが、阿弥陀仏の本願は私の努力は必要としない救いなので、私の努力を褒められこともなければ、懈怠を叱られることもありません。そのため、褒められることもありませんから、「自分で○○を頑張ったから助かった」と思うことはありません。また、叱られることもありませんから、「懺悔したから救われた」と思うこともありません。

ですから、褒めてくれないから聞かないぞという思いは、いつまで経っても叶わないことです。間違いですから、それは捨てて「ただ今救う」の南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

阿弥陀仏の本願を計らわないように、疑わないようにとしています。ところが、計らわないようにしているのも、自力と思うとどうにも成りません。本当に救われることがあるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を計らわないように、疑わないようにとしています。ところが、計らわないようにしているのも、自力と思うとどうにも成りません。本当に救われることがあるのでしょうか?(頂いた質問)


お尋ねされている方は、疑いがいろいろと出てくることに悩まれていると思います。

こういう時には、「自分の心と向き合うべきだ」という人も有れば、「自分の心にこだわっているから分からなくなるのだ」と言う人もあります。

これについては、どちらが正しくどちらが間違いと言い切れないところがあります。ただ、自分の心の様子に一喜一憂して、どうしても自分の心の有り様が気になる場合は、視線を自分の心から阿弥陀仏の本願に変えるのがいいです。

なぜなら、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることない」のが信心だからです。阿弥陀仏の本願を聞かずに自分の心と向き合ってるのは、法を聞かずに救われようという話になってしまいますので、元々無理があります。

南無阿弥陀仏を称えても、阿弥陀仏の本願を聞いても、聞いた後から、「では自分の心はどうなっただろうか」という確認作業は本来余計なことです。余計なことを付け加えるので、南無阿弥陀仏を聞いてない状態になってしまいます。

南無阿弥陀仏は、ただ今救うという阿弥陀仏のお働きそのものですから、私がどう聞いたかという評価を付け加える必要は最初からありません。ただ今救うと、聞いて、ただ今救われて下さい。

阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を真剣に聞こう、聞いたら聞き開けることがあると思っていたけれどもなかなか聞けない。現在は、どうしたらいいか分からないという御尋ねです。

確かに、阿弥陀仏の本願を真剣に聞こうと思えば思うほど、なかなか聞けないものです。それはなぜかと言えば、「真剣に聞こう」と思う人は、「助かりたい」と思う一方で、自分の力をあてにしているからです。それでは、阿弥陀仏の「助ける」の仰せを聞いたことにはなりません。

昨日と、本日、大学入試センター試験が行われています。私も過去受験をしたので、受験生の心配はよくわかります。この受験生の心情と、質問された方の気持ちは似ている部分があります。

私の実例を紹介しますと、かつて私が受験生だったとき、近所の「勉強の神」に初詣でして、合格祈願をしていました。それまでの初詣でとは違い、少し真剣に手を合わせていた事を覚えています。日頃は、神社に手を合わせたところで、本気で何か御利益があるとは思っていませんでした。ところが、いざ受験となると、「なにかの手助けになることがひょっとしたらあるかも」という気持ちになり、その「何かの手助けがありますように」と思って手を合わせていました。


これは、受験をした方なら分かると思いますが、「受験は水物」とはいうものの、大半の受験生にとって、それまで勉強してきた学力以上の点数を受験でとることはほぼありません。例えば、模試でD判定の大学に合格すると人はあっても少数です。そこで「日頃の力が出れば」合格出来る大学を出願します。受験祈願も、そもそも「自分の力以上の成績を出させて下さい」ではなく「日頃の力を発揮できますように」という願いに成っています。その根底にあるのは、まず自分の力以外に受験の成功はありえないということで。次に、神頼みはあくまで、自分が力を発揮するための心理的安心を得るための補助に過ぎないということです。


そこで、先ほどの阿弥陀仏の本願を真剣に聞いたら助かると思っている人の話に戻りますと、前述の受験生とよく似ています。


真剣に聞いたら助かると思っている人は、あくまで『自分の力以上のものは結果として出ない」と思っている人です。言い換えると、それだけ自分に自信を持っている人です。これを自力をたのむともいいます。また、それだけ自分に自信を持っているから、阿弥陀仏の救いはあくまで補助的な扱いになっています。その補助的というのは、別の言い方をすると、「本来浄土に往生できる私」を、少し手伝ってくれるのが阿弥陀仏の本願だと思っているということです。

しかし、そのような人は、阿弥陀仏の救いを勘違いされています。なぜなら阿弥陀仏の本願はすでに成就しているからです。私の力を足す必要もなければ、私の力をサポートするという本願でもありません。


親鸞聖人は「大悲の弘誓をたのみ」と言われています。これは私の力は必要ないと言われていると同時に、「本来浄土に往生できる私」という可能性を一切認めておらない事で言われています。なぜなら、阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏となられたのは、私の力を使わなくても、私を浄土に往生させるためだからです。


「助かるはずの自分」という自信は捨てて、「自分の力では助からない」と聞き入れて、ただ今救うの法を聞き入れて下さい。

どれだけの聖人といわれる人も、自分の力で浄土往生はできないと、「自力の往生」の望みを捨てて、南無阿弥陀仏の光にあわれました。

それを親鸞聖人は、御和讃に言われています。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃)

信心決定したら、何か分かったというようなハッキリしたものがあるのでしょうか。(頂いた質問)

信心決定したら、何か分かったというようなハッキリしたものがあるのでしょうか。(頂いた質問)

信心決定したとは、阿弥陀仏の第十八の願をこころうることですから、阿弥陀仏の本願がまことであるとハッキリします。ただ、こう聞くと自分の中に「阿弥陀仏の本願がまことであると分かる基準が出来上がる」と思いますが、そうではありません。

例えば、「なにかさとりを開いて南無阿弥陀仏が分かるようになる」とか、「今迄見えなかったものが見えるようになる。聞こえなかったものが聞こえるようになる」というように思う人もいます。しかし、そんなものはありません。

それでも私たちは、ハッキリしないことがハッキリするときには、何か証拠がなければなりません。例えば、企業の不正疑惑などがあったときは、疑惑の段階では本当に不正があるかどうかはハッキリしません。その不正がハッキリするときは、不正の証拠がどこからか出てきたときです。

それを阿弥陀仏の本願にあてはめて、「阿弥陀仏の本願がまことである」という証拠をどこかに探してしまいます。その証拠をみつけたのが信心のように思ってしまう人もいます。


しかし、証拠は南無阿弥陀仏の外にはありません。南無阿弥陀仏を聞いて称えているままが、それ疑い無く聞き入れているのが、ハッキリしたということです。○○だから、ハッキリしたのではなく、南無阿弥陀仏が証拠です。外にはなにもありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり(御文章4帖目7通 六か条)

http://goo.gl/DRc4r

南無阿弥陀仏が私を救うお働きだとは聞きますが、今一つ実感として分かりません。(頂いた質問より)

南無阿弥陀仏が私を救うお働きだとは聞きますが、今一つ実感として分かりません。(頂いた質問より)

実感と言われる言葉からは、何かを実際手にしたときの重みや、火傷をしたときの熱さのようなものを想定していわれているのだと思います。

また、そんなものではないにしても「何か」あるだろうと思ってしまいます。それは、私もそう思っていましたのでよく分かります。


しかし、今聞いている南無阿弥陀仏に何かの「実感」が加わって、その通りと聞けるようになるのではありません。

なぜなら南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の本願が成就した相であり、阿弥陀仏が私を救うお働きだからです。。それをそのまま聞き入れることを、信心獲得(信心決定)といいます。何かを加えて聞いたことにより救う働きがやっと完成するというものではありません。そのことを蓮如上人はこのように言われています。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章五帖目五通)

http://goo.gl/VCNq4F

信心獲得するということは、阿弥陀仏の第十八願をこころうることであり、それは南無阿弥陀仏のいわれをこころうることだと言われています。

こころうるというのは、聞いたとおりに思うということです。聞いたことにあれこれこちらの評価や判断をもちこまないということです。なぜなら、南無阿弥陀仏が私に働きかけ、また私の口から称名念仏となってあらわれているのは、私が判断を挟む前にあることだからです。

また、聞いた通りに思うということは、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と言われています。聞きなさい、聞いた通りに思いなさいというのが、「聞思して」ということです。聞く前からあれこれ計らったり、聞いたことにあれこれ付け加えてはならないというのが「遅慮することなかれ」です。

南無阿弥陀仏の念仏を称えても聞いても、今一つなんとも感じられないので、ついつい「何か」を加えないと味が分からないのではないかと思ってしまいます。しかし、ただ今救うのおはたらきは、聞いた通りのことだと聞くのが、こころうるということです。

南無阿弥陀仏に間違いないということは、間違いないと思ったから間違いなくなるのではありません。間違いない南無阿弥陀仏だから、間違いないのです。「間違いない!」と実感できたから、間違いなくなるのでもありません。
「必ず救う」の南無阿弥陀仏の仰せが間違いないから、必ず救われることになります。

南無阿弥陀仏と聞いたそのままが、救われたと言うことです。何かの実感を加えなくても、そのまま聞いて下さい。

「私は、現在念仏を称えています。報土は無理でも化土には行けるのではないかと考えています。このように考えるのは間違いでしょうか?」(頂いた質問)

私は、現在念仏を称えています。報土は無理でも化土には行けるのではないかと考えています。このように考えるのは間違いでしょうか?(頂いた質問)

よく勉強されている方が言われる質問かと思います。なぜなら、親鸞聖人も化土往生する人が多いと御和讃にかかれているからです。

(93)
報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり
(高僧和讃)


こう聞きますと、「報土往生は難しそうだけど、化土なら行けるのでは?」と考えてしまいがちです。しかし、この御和讃は、そういう考えを戒めておられるものです。言い換えれば、折角阿弥陀が報土を用意され、そこに往生せよと本願を立てられているのに、化土に行く人が多いことを戒めておられるということです。


阿弥陀仏の本願は、本当に願われている事は、あくまで報土往生です。それを、わざわざ「化土でもいいや」と思うのは、心情としてはわかりますが、阿弥陀仏の本意ではありません。


親鸞聖人は、そのような報土と化土の区別もなく念仏すればなんとかなると思っている自力念仏の行者に対して大変厳しいことをいわれています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(教行信証化土巻)
(現代文)
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。

平たく言えば、自力念仏の人は、助かりませんよと言われています。

報土は無理でも化土があるというのは、あくまで私の世界でのことです。阿弥陀仏の本願からいえば、報土往生がそれこそ本願なのです。本願を聞いて、念仏して報土往生する身になってください。ただ今救われます。

「阿弥陀仏の本願は聞いて納得しています。しかし、疑いは晴れません。どうしたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

「阿弥陀仏の本願は聞いて納得しています。しかし、疑いは晴れません。どうしたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を聞いて納得はしているんだけど、疑いは晴れないというお尋ねです。お尋ねされた方は、どういうことを「疑い」といわれているのかを考えて見ます。


一般では、「納得」したら「疑い」はありません。「納得できない」ことに「疑い」が出てきます。最近の事例で言えば、殺人事件で有罪判決を受けていた夫婦が、再審請求を受け入れられ釈放されるということがありました。これは、裁判所が今までの検察の証拠に「納得できない」ところがあり、有罪ではないのではという「疑い」が出てきたために再審することになりました。反対に、明白に有罪である証拠があれば、有罪である事に「納得」して、有罪ではないのではという「疑い」は出てきません。


そう考えますと「納得」したけど「疑いが有る」というのは、一般ではありえないことになります。つまり、質問された方は納得したといっているが、実は納得していないということになります。


では、質問された方の「納得」とはどういうことを指していわれているのでしょうか?言い換えれば「頭では分かるんですが……」「理屈はそうなんですが……」ということだと思います。私もそう思っていました。


具体的にいいますと、「確かに私がなにかをしたから救われる手助けになるはずはない」「末法の世に凡夫が仏になれる道は、確かに阿弥陀仏の本願以外にはない」「修業をしろといわれても、1時間の話しを聴聞してもいろいろ考えてしまうような私には、行などできないのだから、南無阿弥陀仏の救いによらねばならない」などなどです。


これらに共通している事は「理屈はそうだ、だけども……」というところです。つまり阿弥陀仏の本願は、「理屈の上では末法の凡夫が仏になる道はこれしかない」のですが、「そんなことはありえない」と思うのが私の「考え」です。その私の「考え」は、阿弥陀仏の本願を「納得」出来ません。なぜならば、私の常識からはありえないからです。というのは、何事も商業的なやりとりで換算してしまう現代人にとっては、阿弥陀仏の本願も「割に合うかどうか」で考えがちです。そのような損得勘定でいえば、阿弥陀仏の本願というのは、私目線で言えば非常に「割に合わない」ものです。なぜなら、「私一人を助ける」ために「五劫思惟と兆載永劫の修行」をされているからです。なぜ「私一人」を助けるために、それだけのご苦労をされるのかと考えると、損得勘定で言えば丸で割に合いません。例えて言えば、一人を助けるために、何百、何千、何億という命を犠牲にするようなものです。


そんな本願を聞き入れることがあるとすれば、それは直接阿弥陀仏の本願を聞くより外にありません。どんなに「あり得ない」ことでも、それが目の前にあれば、私の考えや損得勘定は消えてしまいます。


例えば、村上春樹の小説「1Q84」では、主人公が「1984年の日本」から「1Q84年の日本」に紛れ込んだ象徴として、月が二つある世界が描かれています。月が二つあるとは、「私の世界」では「あり得ない」ことです。しかし、それを目の前にして、周りの人もテレビのニュースでもそれが「大事件だ」「あり得ないことだ」と報じないことで、小説の主人公はそれを受容していきます。

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

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同じように、南無阿弥陀仏が私を救うということは、「私の世界」では「あり得ない」ことです。しかし、現に目の前に「南無阿弥陀仏」と聞いてみれば、私にそれを否定する材料はありません。納得するとか、しないという問題ではなく、「そういうものだ」と聞き入れてください。そこには「疑い」はありません。

あり得ないことでも、聞いたらそれはあり得るどころか、そういうことなのだと、親鸞聖人は御和讃にこう書かれています。

超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり(帖外和讃)

「まだ阿弥陀仏に救われていない私が称える念仏は、全て自力の念仏だと思っています。しかし、念仏は全て他力であると聞いたこともあります。この二つの関係がよく分かりません。」(頂いた質問)

まだ阿弥陀仏に救われていない私が称える念仏は、全て自力の念仏だと思っています。しかし、念仏は全て他力であると聞いたこともあります。この二つの関係がよく分かりません。(頂いた質問)

お尋ねでいわれている念仏というのは、称名念仏といいまして、口に南無阿弥陀仏と称えることをいいます。その念仏について、まだ阿弥陀仏に救われていない人が称える念仏を、自力の念仏ということもあります。

その反対の言葉として、他力の念仏といわれるものがあります。他力の念仏とは、阿弥陀仏に救われた後を他力念仏という人もあります。

そう聞くと、現在南無阿弥陀仏と念仏している人が、まだ阿弥陀仏に救われていないとすると、それは自力の念仏となり、その人が阿弥陀仏に救われると他力念仏となると理解されていると思います。このような理解はある点では正解ですが、それが全てと思うと間違ってしまいます。


なぜならば、念仏そのものは、阿弥陀仏の行そのものであり、称える人によってそのものがらが変わるのではないからです。
親鸞聖人は、念仏を大行と言われています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻より)

ここで「大行」とは「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」だといわれています。では、その「大行」とはなにかと言えば「無碍光如来の名を称する」ことだといわれています。いわゆる称名が大行だといわれています。そうなると、称名=大行となりますから、称名そのものは私の行ではないということになります。そう聞くと、「私が」南無阿弥陀仏と称えようと思って、南無阿弥陀仏と口に称えているのだから、これは「私の行」であって「阿弥陀仏の行」とは思えない方もあると思います。


そのように「阿弥陀仏の行」である南無阿弥陀仏を、「そうとは思えない」と疑い「これは私の行だ」と決めて、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具えた南無阿弥陀仏を私の往生の足しにしよう」と思って称えているのを自力の念仏といいます。


言い換えれば、念仏とは阿弥陀仏が私を助けようというお働きの顕れそのものなのですから、「南無阿弥陀仏と称うる」こと自体には自力とか、他力の違いは本来ありません。阿弥陀仏のお働きだという意味では、他力念仏です。


では、自力の念仏とか他力の念仏という違いは何によっていわれるのかと言えば、念仏を「自分の行」と思い往生の足しにしようとする人にとっては自力の念仏となります。また、念仏は全て阿弥陀仏の大行と疑い無く聞いて、南無阿弥陀仏と称うる人は、他力念仏といえます。なぜ他力念仏なのかといえば、阿弥陀仏のお働きに自分の力を加えないからです。手助けが必要な南無阿弥陀仏ではありません。


私が、そのように念仏するのも、念仏は全て阿弥陀仏のお働きによるのだと思わされるのも、全て南無阿弥陀仏のお働きだと聞き受けるのが他力信心だと、蓮如上人は言われています。

さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり。(御文章2帖目1通 御浚え)

今回は、お手紙で頂いた内容を元にエントリーを書きました。御覧になっていたら、ご不明な点はコメントでもメールでもいいのでお願いします。

「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。(退会二年目さん、酔っぱらいさんののコメントより)

退会二年目 2013/09/10 03:13
(略)
私は信心決定したのですが私の周りの人は信心決定していないどころか仏教を全く知らない人達ばかりです。どうにかお伝えしたいのですが親鸞会に在籍していた頃の失敗を思い出しなかなかお伝えすることができません。そんなとき「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。わかりずらい質問ですみません。
あと余談ですが信心決定してから「信心決定」という言葉を使うことにやや抵抗を感じます。恐らく親鸞会で求道していたときに思い描いていたものと実際のものがかけ離れていたからだと思うのですが。山も山さんはそのようなことはありませんか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378750437

最初の念仏する上で思うことについてですが、特に間違ったものではありません。
なぜなら、御消息に親鸞聖人が以下のように書かれているからです。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。(親鸞聖人御消息(下)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P783)

「往生を不定におぼしめさんひと」というのは、阿弥陀仏にただ今救われていない人のことです。そういう人は、まず救われることを思い念仏しなさい。そして、すでに阿弥陀仏に救われていいるひとは、阿弥陀如来のご恩を思って念仏し、世の中が安穏であるように、仏法がひろまるようにと思いなさいと書かれて有ります。


念仏は祈祷のするための言葉では確かにありません。しかし、私がただ今称えているところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のお働きそのものです。そのお働きである南無阿弥陀仏が、人を救っていくのですから、念仏するときに「どうかあの人が仏法を聞くように」と思われてもおかしなことではありません。


また、仏法を聞く人が周りでいないなかでも、そのようになんとか浄土往生をしてもらいたいと思うことは、まことに有り難いことだと思います。私も、そのように縁のあるいろんな人に対してそのように思っています。とはいえ、なかなかすぐに聞く人ばかりではありませんので、そこは悩ましいところです。南無阿弥陀仏と念仏するときは、そういうなかなか聞かない人のことを思うこともあります。


あと「信心決定」についてですが、私も同じような気持ちはあります。加えて、元会員や現役会員の人と話をする時に「信心決定」という言葉を使うのを少し控えようという気持ちがあります。理由は、退会二年目さんと同じで、「信心決定とはこのようなもの」という固定観念がそうとう強いので、信心や安心の話をしていても「信心決定」という単語を出すと、どうしてもその固定観念から話を聞いてしまうからです。

酔っ払い 2013/09/10 16:12
自分も昔から、会の「信心決定」というニュアンスが違うと主張してました。
それは会(会長)が実際のものを理解しておらず、
聖教にあるような意味使い方でなく一般受けするようなキーワードとして利用しており、言葉の使い方を歪めていることからだと思ってます。
あ、自分は未信なので信用性はどうだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378797173

酔っ払いさんがコメントされていることも同様のことだと思います。「スッキリハッキリ」とか「人生の目的を達成した喜び」とかいろいろと某会では言います。それを聞いた人は「信心決定とはそのようなもの」と思い込まされ、それに向かって一生懸命「進もう」と頑張ります。信心は「求めるもの」で「与えられるものではない」というのが某会では常識になっていますが、それは間違いです。


多くの会員が今でも所属しているので、それらの人が早く阿弥陀仏の本願を本当の意味で聞かれるようにと思い、私も南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏をするものです。

追記

連絡先はこちらをご覧下さい。
山も山さんのプロフィール - はてな

「無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。」(マヤさんのコメントより)

「無疑心=ハッキリする」の言い方について考える - 安心問答(浄土真宗の信心について)についてコメントをマヤさんより頂きました。有り難うございました。

マヤ 2012/12/28 06:25
無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121228/1356637362#c1356643509


これについては、蓮如上人の御一代記聞書に「心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬと思うは心得たるなり」と書かれています。とくよしみねさんのコメントにも紹介されている文章です。
マヤさんの言われる自覚の定義によるのですが、「理解した・分かった」という意味の「自覚」はありません。弥陀にまかせたことをさして、自覚とわれるのならば、それはあります。


そのことを御一代記聞書では、「理解した・分かった」ということはないという事を、「少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」と言われています。
では、救われたと言うことはどういうことなのでしょうか?については「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり」と言われています。


上記の御一代記聞書の全文は以下の通りです。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(御一代記聞書213・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1300)

http://goo.gl/q7aiN


自覚という言葉に相当するのが、「心得た」です。この御一代記聞書も、当時同じような質問が多かったので蓮如上人が仰ったものと思います。
ここから言えることは「救われる」の意味は、「弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思う」ことだということです。私の側での「理解した・分かった」ことではないと書かれています。


また、自覚という言葉の意味は、辞書を引くと以下のようにあります。

【自覚】じかく
① 自分自身の立場状態能力などをよく知ること。わきまえること。「自分の立場をよく―している」「本人の―に待つ」(大辞泉より)

「自分自身の状態をよく知ること。わきまえること」という意味でいえば、救われている状態であるということをよく知ることはあります。


しかし、一般に「自分自身の状態をよく知ること」は、なにか「分かった・理解した」ことからいうので、その点では異なります。
自分の「分かった・思った」ことの土台にたって、救われたかどうかを言っているのではありません。阿弥陀仏の仰せにまかせたかどうかを、救われたと言っているのです。


ですから「『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。」と言われています。
私にむけてただ今助けるという阿弥陀仏が仰せになる南無阿弥陀仏をそのまま聞くよりほかにはないということです。それ以外に「分かった・理解した」ことで往生できるかどうかが決まるのではありません。


最後にあらためて書きますと、「理解した・分かった」からくる自覚はありません。「弥陀の仏智にまかせた」からくる自覚はありますということになります。

「私のように自力念仏しか称えられない者は果遂の誓いに帰することが出来なければ18願に入り信心決定出来ないのでしょうか。」(頂いた質問)

親鸞聖人の和讃に「定散自力の称名は果遂のちかいに帰してこそおしえざれども自然に真如の門に転入する」とありますが、果遂の誓いに帰してこそとは、どういう意味なのでしょうか。私のように自力念仏しか称えられない者は果遂の誓いに帰することが出来なければ18願に入り信心決定出来ないのでしょうか。(頂いた質問)

(66)
定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する(浄土和讃_大経讚・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P568)

http://goo.gl/9iNpA

質問の和讚は、上記の浄土和讃です。
「果遂のちかひに帰してこそ」について、「果遂の誓い」が20願のことです。「帰する」は、入るということです。

お尋ねでは、「自力念仏しか称えられない者は、果遂の誓いに帰することができない」とありますが、浄土に心をむけて念仏している方は、すでに20願の中に入っている人です。そのため、質問された方は「自力の称名を称えている人は、今から20願にどうにかして入っていかねば救われない」という趣旨で質問されています。

しかし、ここは「自力の称名を称えている人も、20願の中に入っているので」という意味です。


なぜなら、自力の称名を称えているとう事自体が、20願の願力のお働きだからです。20願は、「まず自力の念仏を称えさせよう」という願ではありません。18願の他力念仏の救いを聞きながら、それを疑い自力の念仏を称えるものがいたとしても、そんなものでもなんとか化土になりとも往生させてやりたいと建てられた願です。そうは言っても、化土往生させるのが阿弥陀仏の本願ではありませんので、その本当の願いは、何とか18願の救いによって報土往生をさせてやりたいというものです。

たとえ自力の称名といっても、称えている念仏(南無阿弥陀仏)自体には私を救う働きがあるのですから、そのお働きによって「南無阿弥陀仏のお働きで18願に転入する」といわれたものです。

とくにこのご和讃は、20願の願の働きを讃えられたものですから、南無阿弥陀仏は、自力の念仏行者も決して見捨てられないという御心で建てられたということを、南無阿弥陀仏のお働きに焦点をあてて書かれたものです。

しかし、このご和讃を「自力の称名をまず励みなさい、そしたら自然にいつのまにか救われる」と思うのは大変な間違いです。自力の称名の功徳で報土往生できるのではありません。たとえ自力の称名であっても見捨てることはないという阿弥陀仏の御心からいえば、直ちに自力を捨てて他力に帰するべきです。

そのため、このご和讃の直後には、次のように言われて厳しく自力疑心を戒めて、他力の信を勧めておられます。

(67)
安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり(同上)

http://goo.gl/sMceS

「安楽浄土を願いつつ 他力の信をえぬ人」とは、「定散自力の称名」の人も当然入ります。その人で「仏智の不思議を疑い」「他力の信をえぬ人」は、化土にとどまるといわれ、報土往生はできないのだと戒められています。そして、疑いを離れ他力の信をえて報土往生を遂げなさいと勧めておられます。

お訪ねのように、私のようなものは20願にも入っていないとか、18願はまだ先という考えはもたれない方がいいです。また、自分はまだ20願に入っていないからまず20願に入ろうというのも間違いです。

ただ今救うの本願招喚の勅命が南無阿弥陀仏ですから、それを現在称えておられるということは、その仰せがすでに働いているということです。

ただ今救う本願ですから、ただ今救われます。