安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

19願の軌道に乗せるのが難しい(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。

ご回答を頂き有り難うございました。
1点はっきりしません。親鸞会で勧めているところの諸善は弥陀の救いに全く関係ないもので、単に因果の道理の観点から教えられていると言うことでしょうか?
そうであるならば、諸善を勧める根拠としてわざわざ19願を引っ張り出してくる必要はありません。親鸞会では19願をどのように教えているのでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080723/1216814963#c1216874953

お尋ねの件について、お答えいたします。

以前、元自称福徳会員さんが書かれていたとおり、三願転入は親鸞聖人が弥陀に救われられて振り返って、あれは方便であったと言われた体験告白です。

19願で勧められているのは「修諸功徳の願」と言われるように、万行諸善を勧められています。
誰でも彼でも、諸善をしている人はみな19願の行者かというとそうではありません。
「発菩提心 修諸功徳」と誓われているとおり、「菩提心を起こして、諸々の功徳を修している人」(真剣な心で、善を行っている人)が、19願の行者です。

「真剣な心」というのは、どういう心で善を行っているかというと
「至心発願 欲生我国」と19願で誓われているように、弥陀の浄土に生まれたいと、まことの心で願っている心です。

「弥陀の浄土に真剣に生まれたい」という心で、真剣に善を行っている人のことを言います。
「頭燃を灸うが如く」善をしている人をいいます。

では、そんな心になった人、いわゆる、今日かも知れぬ無常のわが身に驚き、また、暗い後生に驚き、また、自力の心に驚いた人が、「どうしたら弥陀に救われるだろうか」と、真剣に弥陀の浄土に生まれたいと、それこそ本気になった人に、勧められているのが19願の善です。

阿弥陀仏の方からいえば、「そんな真剣な心にさせて、善をさせてみせる」のが19願です。

では、そんな心で、真剣に善をしている人が、どれだけあるでしょうか。
「発菩提心」となるのが大変なのです、「弥陀の浄土に生まれたいと真剣になる人」が、なかなかいないのです。
このブログを読まれている方の中には「いや、私は真剣に求めている」という人も多くあると思いますが、よく言われる「後生が苦になって眠れなくなった」のでしょうか。「本当に今救われなかったらどうなるのか」
「今死んだらどうなるのか」と真剣に求めたことがあるのでしょうか。

これはあくまで個々人によって、表現は異なりますので、必ず上記のような言葉となって現れるわけではありません。

ただこういうように質問されると「それは相当信仰の進んだ人だよ」と答える人も多くあります、「なかなかそんなようにならないから困ってるんだよね」という人もあります。
「そんなようにならなくて困っている」とさして、困ってなさそうに言います。

「後生に驚かない」から三世の諸仏も見捨てたのではないでしょうか。
こういうと、「凡夫にそんな驚く心はない」と言う人もあります。
だからこそ、そんな驚く心を起こして下されるのが、釈迦弥陀の善行方便であり、19願の願力、20願の願力の働きなのです。

その軌道にのるまでは、どうしても因果の道理で導くしかないのです。
三願転入の軌道にのる、いわゆる横の線に乗った人に、19願の諸善や、20願の念仏の勧めが関係してくるのです。

仏縁に恵まれ、今生で仏法を求めている人は、たしかに仏縁深い方々と思います。
仏法聞き難しとお釈迦様が言われるとおりです。

しかし、本気で弥陀の浄土に、いま生まれようと、本気になる人がなかなかないのです。
実機からいえば、そんな心があるとはいえませんが、本気で求めようという気が起きるまでの人には、どう説いたところで、因果の道理からいう廃悪修善としか実感できません。

「後生に驚き、なんとしても聞き抜かねばならん」という気持ちになっていないから、どれだけ諸善を行っても、19願で教えられているそのままの善にはなりません。

しかし、三願転入の軌道に早くのりなさいという意味で、親鸞聖人は教えられ、親鸞会では善を勧めています。

じゃあどうしたら、そんな心になるのかという質問も出てきますが、
「釈迦弥陀は慈悲の父母
 種々に善行方便し」
といわれるように、釈迦弥陀の善行方便により起こさせられる心なのです。
振り返れば分かることではありますが

信前にはどうかんじるか、山口善太郎さんの言葉から引用すると

「少しも聞く気の、ない奴に 不思議に聞く気が、起こりそめ」

というのが実感です。

この歌の最後には

「そこで、いよいよ難信義
 泣いて、甲斐なきことなれど
 方角立たずに、泣くばかり」

とありますが、こんな心にさせられるのですが、どうにもならぬ自力を知らされ、泣き泣き仏法を求める心になる人がなかなかありません。

その人の仏縁といってしまえばそれまでですが、なんとか、そんな心に早くなってもらいたいと、お釈迦様は因果の道理を説かれ、19願の軌道に乗せようと、一切経を説かれたのです。

どうすれば、真剣に求めるようになるのか、理屈が好きな人には理屈詰めで、感情的な人には感情で、阿弥陀仏は種々に方便されています。

それもこれも、一日も早く、無常の命なのですから、信心決定してもらいたい、弥陀の浄土に生まれさせたいの、弥陀の大悲の願力の働きなのです。
その願力によってつくられた、南無阿弥陀仏の働きなのです。

真剣に求めよといいますが、その「真剣に求める心」になかなかならないからです。

19願の善を根拠にするのは、そこまで勧めという阿弥陀仏の本願、親鸞聖人の三願転入から言われていることです。

方便について8(せずにおれない気持ちについて)(元自称福徳会員さんのコメントより)

前回のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080630/1214830526)の続きです。


元自称福徳会員さんのコメント全文は、こちら
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080628/1214657835#c1214762007


続きです、蓮如上人の御文章によく書かれてある、「なんのようもなく、雑行をすてて、一心一向に弥陀に帰命して」という場所について

「救われる相手が主語となって何かするということではない」ことは同意します。しかし、ここで書かれている「なんのようもなく」は「何の要もなく」。「雑行をすてる以外、その他のこと(例えば財施や破邪顕正)は必要なく」と解釈すべきと思います。(なお、「その他のこと」の中に『「本人が自力を捨てようと真剣にやってみる」こと』も入るかどうかを問われればYesとなります。)

「なんの要もなく」とは、行者のする行いではなく、阿弥陀仏の願力によってという意味です。歎異抄の「ただ」と同じ事になります。

方便についての私の考えです。

阿弥陀仏も釈尊もこの願が真実、この願は方便と教えておられませんし、聖道諸経についてもこの経は方便だとは説かれていないと思います。ですので、たとえ弥陀の本願に救われた人であっても、軽々しく、この願は方便だとか聖道諸経は方便だと言ってはいけないと思います。「それならばなんでお前は19願や20願、聖道諸経は方便と言っているのだ」と言う話になりますが、その答えは「親鸞聖人がそのように教えられたから」です。親鸞聖人は体験と深い教学を兼ね備えられた上で、「19願や20願、聖道諸経は方便」と教えられました。そしてそのように教えられた目的は「私達が方便を捨てて18願の真実を求め、18願の世界に救われる」ためです。親鸞学徒である私たちは、「19願や20願、聖道諸経は方便」と思ってはいけないどころか親鸞聖人の教えに信順し、「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて求めさせていただかないといけないと思います。

上記の意見については、ほぼ同意します。
弥陀に救われた親鸞聖人ご自身が、方便の願と真実の願を分けられているのですから、言ってはいけないとはなりませんし、またそれが分からねば、人に教え導くことはできません。

ただ、「方便と信じて」というのは、どういう気持ちなのでしょうか?
そのあたりは、もう少しお聞きしたいと思いました。

親鸞聖人は「19願や20願、聖道諸経は方便なので捨てて、18願を求めなさい、そして救われなさい」と教えられました。その一方では19願や20願を説く必要があるとき(相手)には「本願で誓われている通り、実行すれば、化土往生ができますよ」と教えられています。少しも矛盾を感じません。

19願の善、20願の善(念仏)を行うことができたから助かるのではない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わずに、真剣に実行することは可能でしょうか?

そういう気持ちにさせていただくのが、十九願で阿弥陀仏が誓われた「発菩提心 修諸功徳」なのです。

では、「十九願の善、二十願の善を行うことができたから助かるのではない」ということは、よくよく頭で理解し、教義上そうだとわかっていても、吸う息吐く息に迫る無常に驚いた人は、弥陀の救いを急いで求める人は、どんな気持ちになるでしょうか。

ここでいう助かるとは、言葉をかえると「雑行雑修自力の心がすたる」ことです。
善をしたら自力が廃るのではない、念仏称えたら自力が廃るのではない、そう分かっていても、無常は念々に迫っている、ダメだと思っても「何かの足しにはなるのでは」という心にならないでしょうか。
間に合わないとは聞かされても、「念仏の功徳はあるから、称えないよりはましではないか」とか、思わないでしょうか。
その他諸善について、「やらないよりはやったほうがいいのではないか」という気持ちは出ないでしょうか。
それら、自らの体や口や心で行う、自分で善だと思うことをあて力にして、なにかの役に立つだろうと思う心すべてを自力の心というのです。

自力の牙城はとても固く、だからこそ阿弥陀仏が十八願だけでなく、十九願、二十願と方便の願まで建てられなければならなかったのです。

やっている本人は、それが自力と思えず「それでも何かの役に立つだろう」としか思えません。
その行者に「それが雑行だ」「それが雑修だ」「それが自力だ」「それを振り捨てよ」「弥陀をたのめ」と教え勧められる方が、善知識であり信仰のある同行なのです。

知識は針の如し、同行は糸の如しといわれますのも、そこは通った者でなければ、どれだけ想像してもわからないことだからです。だからこそ、蓮如上人は「教化する者まず信心をよく決定せよ」といわれるのです。

なので、「自力などわかるものではない」「すくわれなければ自力は自力とわかるものではない」と、言っている人を今まで何人も見かけました。
「救われなければ分からない」とは、一面からいえば事実ですが、本当になんにも分からないのでしょうか。

自力の心を、疑情ともいわれますが、弥陀の本願に真剣にむかったときに、疑う心が出てこないのでしょうか。「ほんとうに一念で救われるのか」などなど、出てこないでしょうか。「これだけ聞法しているのになぜ救われないのだろうか」とか思ったことは一度もないのでしょうか。
それとも、そういう本願に対する疑いは全く出ずに、弥陀に救われてから「ああ、自分は疑っていたのか」とでもいうのでしょうか。

疑っている者に疑い晴れたと言うことがあり、自力が捨てられず苦しんだ人に、自力廃ったという喜びがあるのです。

「わかっちゃいるけどやめられない」は、なにも欲や怒りの煩悩を抑えようとおもっても、抑えられずに振り回されている人のことばかりをいうのではありません。

「自分のやった善、称えた念仏、これだけ聞いた、これだけ覚えた」それらは、全部、聞即信の一念を突破するときには間に合わないと、繰り返し聞かされていても、それでも「わかっちゃいるけどやめられない」のです。

これは、その心にならない人がみたら、矛盾と思うでしょう
「分かっちゃいる(わかった)」のなら「やめられる」はずです。

しかし、この世のこと(タバコが好きな人なら喫煙、高カロリーなものをたべる)でさえ、「わかちゃいるけどやめられない」のが、私たちです。どうして、弥陀の本願にむかったときだけ、そうならないといえるのでしょうか。

「わかっちゃいる」けど「やめられない」逆さまの心しかもたないものだから、阿弥陀仏はご苦労をされているのだし、その弥陀の願心を伝えられる、釈尊をはじめとした善知識方もご苦労をされているのです。

方便について7(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより
全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080628/1214657835#c1214762007

元自称福徳会員さんへ、コメント有り難うございました。

私たちが信心決定するために、「阿弥陀仏はどのように教えられたか」、「善智識はどのように教えられたか」あるいは「私たちはその教えをどのように受け取るべきか」と言うことです。

そのように今後回答を心がけていきます。よろしくお願いいたします。

貴殿の主張は『蓮如上人は「雑行を捨てよ」と教えられたが、聞く立場のものは、「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と理解しなさい』と言うことでしょうか?
それとも『蓮如上人が「雑行を捨てよ」と教えられようと「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と教えられようと意味は一緒』と言うことでしょうか?

『「捨てなさい」と理解しなさい』ということではありません。捨てよといわれています。

この件について、「雑行をすてよ」と教えられる相手は、当然雑行自力の心を持っている人です。
自力の心とはどんなこころかというと、「なんとかすれば何とかなれる」という心であり、「雑行がすてられるとと思う心」です。
そんな心しかないのですから「雑行をすてよ」といわれれば、「なんとか捨てようと必死になります」。
もちろん何とか弥陀の救いにあいたいと真剣になっている人は、という条件付きです。
それというのも、弥陀の救いに真剣にならない人は、雑行自力についても真剣に捨てようとか、どうしたら廃るのかという心がおきないからです。
「理解しなさい」といわれて、「理解しました、では、捨ててみます。でも、雑行自力ってどんな心でしょうか」という人は、そこまでの信仰だということです。

よって、「雑行」=「捨てられると思う心」ですから、元自称福徳会員さんが書かれているもう一つの

『蓮如上人が「雑行を捨てよ」と教えられようと「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と教えられようと意味は一緒』と言うことでしょうか?

ということになります。

「主語が阿弥陀仏」とおっしゃられますがあくまで主語は救われる本人です。阿弥陀仏のお力で主語である救われる本人が自力を捨てさせられると解釈するべきです。主体はあくまで救われる本人であるべきです。それは「本人が自力を捨てようと真剣にやってみる」ことが必要と考えるからです。ですので、「雑行を捨てよ」と教えられるべきであり、「雑行を捨てられると思う心があれば捨てなさい」と教えるべきでないと思います。

「私が」捨てて救われるということではなく、「阿弥陀仏が」雑行雑修自力の心を捨てさせてくださるから救われるということで、「阿弥陀仏が主語」といったのです。

雑行を持っているからすてよと言われるのですが、「私が」捨てられるから助かるのではないということから、「雑行をすてられると思う心(自力)があれば捨てなさい」と表現しました。

「これで宿善が厚くなる」とか「救われるのに近づく」とか「救われるための勝縁になる」とかと言う気持ちでやってはいけませんし、そのように勧めてもいけません。ましてや目標や表彰制度を設定を設定し、ミスリードをするのはもってのほかです。
悲願の法城ビデオは意図してミスリードする構成になっていると思わずにおれません。

上記に関しては、同意です。
座談会の内容と、前後のビデオで言っている内容が一致しません。


そこで、今回、回答申し上げたいとコメントを読んでいた中で、一つ気になる部分がありました。

18願を求めるようになるまでに阿弥陀仏が必要と思われて建てられたのが19願、20願です。さらに19願に導くために説かれたのが聖道諸経です。

ここまでは私も同意します。

この場合、19願、20願、聖道諸経も説き方は「説かれているとおりに実行すれば説かれているとおりに救われる」という説き方です。求めるほうも如実に実行しようと努力する必要があります。19願、20願の場合でしたら「19願に説かれている諸善や20願に説かれている念仏を称えれば化土往生できる」と説くべきですし(以下参照)、求めるほうもそのような気持ちで真剣に実行しなければなりません。また、現在、18願を求めている人はそのように実行してきたはずです。そして18願の救いに与ったとき、振り返って知らされるのが3願転入の道です。

聖道門諸経は、弥陀の救い(三願)に導くための方便という点では、同意しましたが、十九願や、二十願は、十八願の救いにあわせる為の方便ですから、十九願単独で説かれたり、二十願単独で説かれると言うことはありません。
最初に十八願(真実・目的地)を示して、その目的にむけてどうしたら到着できるでしょうか?と真剣になった人に、十九願、二十願(方便・手段)を説かれるのです。

聖道門諸経が方便(手段)とした場合の、その方便がどこへ導くためかと言えば、弥陀の救い(目的地)です。
弥陀の救いとは、十八願(真実)のことです。
十九願へ導くときくと、十九願が聞法している人にしてみれば、目の前にまず十九願があらわれて、それに向けて真剣に行じていると、次に二十願があらわれて、次に二十願を真剣に行じていると十八願に救われるというようなものではありません。

いつでも、阿弥陀仏は十八願の世界にすべての人を救うのが目的であり、善知識方も、弥陀の救いをまず指し示されます。よって、説かれる善知識も、弥陀の救いを明らかにして、それに向けてどうすれば弥陀に救われますか?と、真剣に弥陀の救いを求める人に、ではこれをやってみなさいと、十九願、二十願を説かれるのです。
最初から十九願を説いて、その通りに実行していたら、十八願の救いを求める気持ちが出てくるのではありません。

元自称福徳会員さんの指摘される、「ミスリード問題」もそのあたりが、三願転入の教えとあわないのではないかというところから来ているのだと思います。

確かに、財施や、法施などの善は、善ですから、行えば善果はかえってきます。
「宿善が厚くなる」といって勧めます。
しかし、それと救いを関係づけたり、その善をすることによって真剣に弥陀の救いを求めるようになる、言葉をかえると
「十九願の善を一生懸命したら、十八願を真剣に求める心になる」という理解や、そのように人に勧めるのは間違いです。

繰り返しになりますが、十九願で勧められる善は、十八願の救いを真剣に求める気持ちになった人(発菩提心)に対して、ではこういう善をしてみなさい(修諸功徳)と言われているのです。

十九願だけ見ていては、善は相対なので、どこまでやっても終わりがない、どこまで行っても救われたということがないから、臨終まですくわれないといわれるのです。

「救われるのに近づく」とか「救われるための勝縁になる」という言い方は、大変誤解を招く言い方に違いはありません。そう言って勧める人が、本気でそう思っているのなら、行って来るほど理解が違うということになります。

ラベンダーさん、がコメントされているような話しになってしまいます。

あんまり真剣でない人に、方便という言葉を使って真実に近づけるには絶対必要だから(善をしなさい、お金をだしなさい、法をひろめなさい)そしたら、すごい世界に出れますよ、この世の苦しみは全部なくなりますよ、障りもなくなりますよ、というのは、仏法ではなくて、御利益宗教や邪教とどこが違うんですか?と聞かれているように思います。

これでは、三願転入の弥陀の救いとはほど遠いものになってしまいます。

実際、「私たちには、何もわからないのですから、19願で説かれている善を<はい>と聞いてやらせて頂きましょう、御恩ですから」と意味不明の説明を聞きますので、さもありなんと思います

ここも大変聞き間違い易いところです。
これも、<はい>と聞くのは、阿弥陀仏の仰せであり、「雑行雑修自力の心をふりすてよ」の仰せに、従うのです。
それは、十八願に救われる、一念突破のときであって、十九願で説かれている善を<はい>と実行していれば、真剣に求める気持ちが出てきてやがてすくわれますよということではありません。

はい、と無条件に従うは、阿弥陀仏の仰せに従うのであり、一念突破のときであります。

聴聞の、「聴」と「聞」を混同し、信前と、信一念を聞き間違うところに、このようなことがでてきます。

まだ、元自称福徳会員さんの指摘のコメントは、あるのですが、すみませんが、こちらの時間の都合で、今日はここまでにいたします。

最後に、ひまわりさん、コメント有り難うございました。

ひまわり 2008/06/30 15:12
(略)
逆の話をされている気がして、聞けば聞くだけわからないので、講師の話は聞かない方がいいと思います。

聞く側の聞き間違えなのか、実際反対なのかは私はひまわりさんがどのような話しを聞かれたかはわかりません。
ラベンダーさんの書かれたようなことが、そういう結果になるのだと思います。

方便について5(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんよりいただいたコメントより
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080623/1214231987#c1214273008

「阿弥陀仏は19願・20願を方便であるとおっしゃられているでしょうか?また、釈尊は聖道諸経の中に「このお経は方便ですよ」とおっしゃられているでしょうか?いずれも方便とはおっしゃられずに「説かれている通りに実行し、説かれている通りに救われなさい」、と教えられていると思います。「できるかできないかやってみなさいと善を勧める」やりかたはとっておられないと思います。」

まず、以上の点ですが同意されますでしょうか?

これについては、前半同意、後半は同意できません。

「説かれているとおりに実行し、説かれているとおりに救われなさい」と
「できるかできないかやってみなさいと善をすすめる」は、イコールだからです。

元自称福徳会員さんは、上記の二つが違うという主張でしたので、前半同意、後半同意できずとします。

よって、元自称福徳会員さんが、紹介しておられる、十九願の根拠、二十願の根拠について

次の点です。これらの2つは19願、20願で勧められている善を実行すれば(実際にできるかできないかは別として)、それぞれの願に相応した往生ができる(救われる)と親鸞聖人がおっしゃられたお言葉と解釈します。同意されますでしょうか?

という点には同意します。

そうやって教え勧めることが、

「できるかできないかやって見なさいと善を勧める」という教え方

になるのです。

元自称福徳会員さんの文章を使うとそうなるのですが、ここで言われる善というのは何をさしていわれているのでしょうか?

十九願も、二十願も、十八願も、最も重視しなければならないのは心ではないでしょうか。
そういう意味からいえば、
「できるかできないかやってみなさいと善を勧める」という言い方は聞いたことがありません。

言うのであれば、「できると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということになります。

ものがらよりも、「できると思う心」こそ問題なのですから、目に見える財施の額の大小が問題ではないのです。

そうなりますと、「方便なら方便(真実の救いではない)と最初からいえばいいではないですか」といわれるでしょうが、それが、先のエントリーで書きましたが、方便を使われるのは阿弥陀仏なので、主語はあくまで「阿弥陀仏」なのです。聞いている側で決めることではありません。ただ、どうしてもそう聞いてしまう人が多いのは否定できません。

三願転入で、救われた親鸞聖人からすれば
「説かれているとおりに実行し、説かれているとおりに救われなさい」と
「できると思う心があるならやってみなさい」は、イコールだったと知らされていますので、
「久しく万行諸善の仮門」にいたと告白され、そこから「出でて」と言われているのです。

「できると思うこころがあればやってみなさい」は、阿弥陀仏の仰せです。その通りに教えること自体が間違いではありません。

しかし、これを聞き誤り、誤用するととんでもないことになってしまいます。
(目標達成のために)「できるかできないか(財施や顕正を)やってみなさい」という心でいえば、目的が違いますから間違いです。

事実財施を強力に勧める論拠になっている、または、善をしたら救われる(諸行往生の機)を多く生み出しているのではないかと思われると思います。

仏法を弘めるのに、個人でなく団体となったときには、確かにお金は必要です。そのために喜んで出しましょうというのが、本来の財施のはずです。だから喜捨ともいわれます。
また、仏法を聞かせていただい、自分に法を説いてくださった布教使にお礼の気持ちで出すものです。

それを、救いと結びつけようと思う心はどこから来るのでしょうか。
これは善だからいい結果がくるはずと、自分の尺度で決めているものがあるのだと思います。「これは善いことに違いない」と善悪を自分できめて、救いと関係づける心を自力と言いますが、そういう大変深く信じ込んでいる人には、それしかわからなければ、ではやってみよと勧める以外にありません。

勧める側に、救いと関係づけるように思っていう人はあるでしょうし、勧められる側にも「その方がわかりやすい」のではないでしょうか。

「救いに関係ないなら、なぜ財施するんですか?」と思われるひともあるかも知れません。
財施の意義は、前述したとおり、仏法を聞いたお礼の心で喜んでするもの、また、どうぞ使ってくださいという気持ちで出すものです。

お金が一番分かりやすく、また大事だからこそ、いろいろな感情が起き、いろいろ腹を立てられるのだと思います。

財施に限らず、自力の心のある間は、「仏法を聞いた」も「念仏となえた」も「これだけいいことした」も「これだけ褒められた」も、それが間に合ってどうにかなるというのが、弥陀の本願ではありません。

それは自称福徳会員さんが、コメントで言われているとおりです。

18願の現在の救いを真剣に求めていくと、「18願はそのまま救うと言う教えであり、自分がやった善や念仏では助からない」と聞かされてわかっているにもかかわらず、「善を足しにしよう・念仏を足しにしよう」と言う心がどうしても出てきます。この心が19願、20願の働きであり、そのまま、3願転入の道を進ませていただいておったのだと救われた後にわかる、と言う理解です。

求めるべきは、十八願の世界であって、その目的に向かって進めと教えられた方が、親鸞聖人です。求めるべき善とは十八願真実のことであり、勧められているものはそれ以外にありません。

その真実の世界に入れるために必要だからこそ、方便があるのです。

蓮如上人も言われているとおりです。

蓮如上人仰られ候
方便をわろしという事は有間敷なり。方便を以て真実をあらはす廃立の義、よくよくしるへし。
弥陀釈迦善知識の善巧方便によりて真実の信をば、うることなる由仰られ候と(御一代記聞書)

方便について4・三願転入の主語は阿弥陀仏(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより
(全文 http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080618/1213784422#c

結論です。真宗の教えには真宗門徒に対し、18願に救われるために善の勧めはありません。ただし、いくら勧めても18願の救いを求めようとしていない人に対し、19願、20願の善を行うことができれば19願、20願の救いにあずかることができる、聖道諸経の中の善を行うことができればその中で教えられている悟りを得る事ができると方便として教えるのは正しいでしょう。それらの人に19願、20願、聖道諸経は方便で、その中に説かれている善をできるかできないかやってみなさいと勧める方法はありえないことだと思います。

上記の件とおよび、元自称福徳会員さんの以下の件

さて、法を聞く立場のものとして『「19願、20願は方便の願といわれる。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わない』ことが可能でしょうか?答えのない方程式であると聴かされた(理解した)上で、「答えのない方程式である」などと思わずに、真剣に問題を解こうという気になるでしょうか?

を読んで、思ったことを書かせて頂きます。

以前、説く側、聞く側で言い方が変わるというようなことを書きました。

18願、19願、20願は、いづれも阿弥陀如来の願ですから、その願に誓われている内容の主語は阿弥陀仏です。未信の行者ではありません。
どの願が方便であるか、真実であるかと言うことは、阿弥陀仏が決められていることであって未信の行者が決めることではありません。

私が、法を説く立場のものがと言いましたのは、「弥陀の御心をそのまま説けば」という意味で、未信の行者がどう思うかという視点ではありません。

よって

それらの人に19願、20願、聖道諸経は方便で、その中に説かれている善をできるかできないかやってみなさいと勧める方法はありえないことだと思います。

と思われるのは、元自称福徳会員さんが思った、感想であって、19願、20願を勧められているのは、阿弥陀仏です。「ありえないことだと思う」ことが、弥陀が19願、20願を建てられた御心だと言うことです。

同時に

『「19願、20願は方便の願といわれる。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わない』ことが可能でしょうか?

この、方便の願であるというのは、「阿弥陀仏が」言われていることであり、また、弥陀の18願にすくわれた世界から、「方便の願であった」と言われることであって、未信の行者がそう思えると言うことではないのです。

三願転入の親鸞聖人のお言葉は、すべて18願にすくわれた世界から言われており、また阿弥陀仏の御心から言われています。その三願の説明を聞く時の主語は、すべて「阿弥陀仏は」ということになります。

(阿弥陀仏)は19願、20願は方便の願と言われると、聞かされて(理解が出来たらその人は仏心の分かる人ですが)、(未信の行者が)方便であると思わないことが可能でしょうか?
という文章になります。

方便と分かるのは、方便の願を建てられた阿弥陀仏であり、お釈迦様であり、その弥陀の願心をそのまま伝えられる善知識なのです。
「未信の行者が、方便であると思わないことが可能でしょうか?」
と言割れますと、方便が方便と分かるという前提の文章ですが、そうなると、その方便が分かるという主語は、「阿弥陀仏」になります。「未信の行者」ではありません。
そのように、三願転入の御文を聞き、方便が問題になるのも、「阿弥陀仏」の願について、言われていることを、聞いている方が「未信の行者」を主語に勝手に置き換えて聞いているところに誤解の元があります。

「19願に教えられる通りの善を実行して、それから20願で教えられる念仏を称えて、最後18願に入るのだ」という理解は、主語が「阿弥陀仏」になっていないので間違いです。18願から見ないと、三願転入の御文は分かりません。

一方、18願だけで善いと言っているのも、弥陀が建てられて19願、20願を勝手に捨てて、これは方便、これは真実、方便だから不要と、「阿弥陀仏」が決められていることを、勝手に未信の行者を主語にしているという点では、本質的に同じです。

元自称福徳会員さんは、前述の「19願を通って〜」という教え方に疑問をもたれて、「18願だけでよい」と主張されているようですが、正しい理解になったのではありません。本質的に、「阿弥陀仏が」建てられた三願を、「未信の行者」に勝手に置き換えて、未信の立場から三願を見ている以上は、まったく本質的に変わっていません。
あくまでも、阿弥陀仏の御心から、説かなければ三願転入の教えにならないし、聞き間違えてしまうのです。

以前、高森先生から「救われるまでは矛盾としか思われない。救われるまでは真仮はわからない」と言われて、「救われるまではわからないこと。何とかそれで納得しよう」と思ってきましたが、

すくわれるまで分からないこと、と言われても、理解をしようという、元自称福徳のお気持ちは本当に尊いと思います。
「どうせわからんのだから」と、安楽椅子に腰掛ける人がやっぱり多いからです。
しかし、理解の目的は、18願の世界にすくわれるためです。

どうしたら分かるだろうか、分かったら早くすくわれるだろうか、どう聞いたらいいだろうか、と真剣に悩み、進む姿が、19願で誓われている「発菩提心 修諸功徳」の姿です。

その時の気持ちに、「方便だから」「間に合わんから」という気持ちになるでしょうか。
「助からない」という点で言えば、「理解」も間に合いません。「知った覚えた、合点した」のが、真実信心ではないからです。

「どうせ救われないなら、財施を一生懸命するのは意味がない」というのも
「どうせ知った覚えたでは、真実信心ではないのだから、合点しようと、真剣に聞いたり、沙汰をするのは意味がない」といっているのも同じことになります。

どうして「財施」「破邪顕正」はだめで、「真剣に聞いたり」「沙汰をする」ことは、いいことになるのでしょうか。いいことといったら「間に合う」と言うことになります。
ここで、聞き間違って頂きたくないのは、「真剣に聞くのが間に合わない」といったときは、(未信の行者が)真剣に聞く(という行い)がまに合わないと言っているのであって、「聞其名号」の聞くとは違います。

18願を求めているものに本来は19願で教えられている善を求める必要がないにもかかわらず、むりやり理屈をひねり出して人集め・金集めのために目標を掲げて破邪顕正・財施を勧めていたのではないかと思ってしまいます。残念ですが、いろいろな不祥事(盗作・長男の不倫とその揉み消し・会計疑惑等)を勘案するとそのように思えてきます。

最後にここについて、教えについてと思うところを書かせて頂きます。
18願の救いに、未信の行者の善根が間に合って救われるのでは確かにありません。
しかし、「阿弥陀仏」は、19願に善を勧めておられます。
「未信の行者」が、方便だと思って善をするということは、また19願の軌道にのっていないのです。
18願の世界にどうしたら出られるだろうかと、真剣に向い、間に合わないと言われても、何かせずにおれない気持ち(発菩提心)になり、なにかしようとする(修諸功徳)が、19願の願力によって阿弥陀仏に引っ張られている姿です。
菩提心が起きるのも、修諸功徳となるのも、「阿弥陀仏が」なされていることなのです。

その願意が分からぬもの(親鸞会の講師全員がそうとは思いませんが)が、19願をしたら、20願になる、20願の念仏していたら、いつの間にか18願になるというような理解(前後関係も主語も逆)で、勧め、聞く方も理解をするから、不審もいだかせる結果になるのです。

いつも三願転入の話しをされる時に、「これは阿弥陀仏のお言葉です」「これは誰のお言葉ですか?阿弥陀仏です」と何度も何度も、毎回のようにいわれるのは、未だの御心から話しをするということなのであって、未信の行者の立場での話しではないということです。

教行信証に親鸞聖人が書かれているのも、ほとんどが、信後の世界、信後の立場から書かれているのも、善知識は、「如来の代官」であり、「弥陀の御心」をそのまま伝えるということに徹していかれたからです。

方便について2(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんから頂いたコメントです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080615/1213533162 コメント欄より)

私が言いたかったことはあらかじめ、「これは方便だよ」と言った上で、方便をやらせると言うのはおかしな話と言いたいのです。うそも方便と言われますが、あらかじめ「これは方便のための嘘だよ」と言っては方便にならないと言うことです。

これに関して最初にお答えします。
真実に導くためのものが方便と言うことですから、「これは方便だよ」と言って、また「どうせ方便なのだから」思っていたらそれは方便になりません。

同じような文脈は、親鸞聖人の教えを聴いている人の中で、よく聴かれる言い方ではあります。
「善を勧められるのは、私たちが善が出来ないと知らせるための方便なんですから、一生懸命善に励みましょう」
言葉上一見間違ってはいないようですが、これを聴いた人は必ず違和感を感じるはずです。

「善が出来ない」と知らされるのと、「善ができない」と結論を知っているのとでは、同じ知っているでも全く異なります。

弥陀に救われた「あれはご方便であった」と知らされるのと、「これは方便なんだ」と聞いているのとでは全然異なります。

弥陀の救いの上でのご方便とは、阿弥陀仏のご方便でありますから、弥陀の19願力、20願力が、救われる前に自覚できるものではないということです。
真実弥陀の救いにあった時、「あれは19願の願力、20願の願力に、引かされたご方便であった」と知らされるものです。

よって、説法の場であれば、これは釈迦の代官として話をするのでありますから、これは方便、これは真実と、すっきり分けて話をしなければなりません。

しかし、そうでない場で、「これは方便だから云々」という話は、やはり合いません。本来仏さまが使う言葉を、人間の目線でいうから違和感を感じるのです。

よく有るケースとして、
「私たちは曽無一善(一つの善もできないもの)とお釈迦様は教えられている」と、言うのは何の問題もありません。言われているのはお釈迦様ですから。
「どうせ私たちは曽無一善だからねぇ」と自分の言葉で自分のことをいうのは、仏さまの言葉を、人間が話すため、どうしても違和感が生じるのと同じです。

「方便がウソ」ということではありません。不要な方便なら、19願も、20願も阿弥陀仏は建てられませんでした。

真剣に18願の世界に向って進む人が、19願の願力で引きづり出され、20願の願力引っ張られて、18願の世界に転入するのです。
これは、弥陀に救われたなら振り返り必ず知らされることであり、三願転入の御文について解説を聞けば、万人共通の体験と言われるゆえんが分かるところです。

時間の関係で続きはまた後日お書きしますが、一つだけ気になるところですが

「佛願の生起本末」を聞かせていただく聴聞や信心の沙汰が、優先的に行うことである。

これはなにかの、ご法話の演題のことのように読めないこともないのですが、仏願の生起本末以外に、仏教はありません。上記の文脈だと「仏願の生起本末を聞かせて頂く聴聞」と「聞かせて頂けない聴聞」があるということでしょうか?

そういう意味で、「三願転入の御文」についてでも、「歎異鈔第1章」でも、「阿弥陀仏の本願」でも、仏願の生起本末を聞かせて頂いているのであって、他には何もありません。
親鸞聖人の教えが、仏願の生起本末以外にないからです。縦の線と横の線をいつも書かれるのは、それをあらわされているのですから。

方便とはどういうものかについて(元自称福徳会員さんのコメントより)

(元自称福徳会員さんのコメント 2008/06/15 06:27)より
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080612/1213275382#c1213478836

19願の願意は18願の世界に出させる為の方便であると言うのはお互い、共通の認識だと思います。ですので、方便と言うことを考えて見ましょう。

方便とは何かということについて、今回は書いてみたいと思います。

まず、元自称福徳会員さんは以下のように言われました。

たとえば、重病で大手術をしなければいけない人がいたとしましょう。
(以下省略)

そこで、方便とはなにかということですが、あくまでも真実に近づけさせるために必要なものであって、真実に入るかどうか、縦の線を突破して、18願の世界に入れるかどうかは、方便ではなく、真実によります。

そこで、方便というのは、あくまでも説かれる方から言うことであって、仏法を聞いている方で、あれこれ言うものではありません。

なぜなら、方便(仮)が方便と分かるのは真実(真)が分かる人であり、逆から言うと、救われる前は、何が方便で何が真実かははっきりと分からないのです。
何が方便かということが分からない人が、方便を論ずるということは、本来は出来ません。導く先(真実)が分からないのですから。

「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)

三願転入の御文も、救われた後に振り返って、三願転入であったと知らされ、親鸞聖人もそのように振り返っていわれたお言葉であって、救われる前にそのように、今自分は、19願、今自分は20願というように分かるものではありません。

そういう認識で元自称福徳会員さんもおられると思いますが、書かれている文章を見ると、「説く立場」と「聞く立場」の視点どちらから論じられているのか、視点があちこちと混ざっているようです。

そういう点から言うと

方便を方便と教えるのは方便が不要になったとき・邪魔になったときと考えます。

聞く立場から言えば
「方便を方便と知らされるのは、方便が不要になったとき(真実に入った時)」です。

また、説く立場から言うと
「方便は、真実が毛頭分からない相手に、導くために相手に分かる範囲で説くものであって、あくまで真実に入る前のことです」

イダイケに向かって、「これから説くことは今救われる18願に入れるための方便だよ」と言われているでしょうか?そのような導き方で本気で取り組もうとする人が現れるでしょうか?

これについてでも、あくまで目的は18願です。18願が目的地で、それをハッキリ説いた上で、それに向っていく人が、19願に誓われている願力で進ませて頂くのであって、19願の往生を目的に、19願にいわれる諸善を実行してみようと思っている人、まだ19願の軌道には乗っていない人です。

韋提希夫人の話がでてきましたので、釈尊は「弥陀の浄土に生まれたい」と願いを起こさせられた韋提希に対して、観無量寿経での善を進めておられます。
「浄土往生」させるのは、18願の願力によるものです。
浄土往生するには、18願の世界に出させなければなりません、その目的(18願)をハッキリ示した上で、観無量寿経での善を勧められているのであって、それによって、韋提希夫人は真剣に教えに従おうとしています。
19願で誓われている臨終来迎を目的にして、それを相手に伝えて善を進めておられるのではありません。

つまり、19願を引き合いに出し、善を勧める・求めるのであればあくまで目的は19願で説かれている往生を勧める・求める必要があると思います。しかし、これで
は真宗になりません。

もちろん善をしたら助かるというのは浄土真宗ではありません。

18願の目的を指し示しても、そこに向って真剣に進んでいる人も、救われない間は、心の底は「臨終来迎」しか分かりません。「一念往生」は体験しないと分からない世界だからです。
そういう意味で、弥陀に救い取られた親鸞聖人が振り返って「雙樹林下之往生の心を離れ」と言われているのです。
あの時は、「雙樹林下之往生の心」しかなかったな、と言われているのです。

「19願は方便であると知った上で、18願の救いを求めて財施や破邪顕正を行う・勧める」のは真宗の教えでもなければ19願の教えでもないと思います。19願の入り口にも入っていないのは至極当然かもしれません。

「 」の部分を未信の人がいったなら聞き間違いですね。
『方便であると知った上で』、とありますが、方便が方便と知らされるのは、あくまで真実知らされた(救われた)ときのことで、「方便であると知った上で」というように思っている人は、方便も真実も何も分かっていないということを自ら告白しているに過ぎません。なので『方便であると知った上で』以降の文章は、まったく意味をなさなくなってしまいます。

これは全く真実を説く立場の話であって、未信の行者がいうのはそれこそ親鸞聖人、阿弥陀仏の頭の上に立っていることになります。

方便を「論ずる」というのは、そういう点で説く立場でない方向からはなかなか難しいものです。

私自身は18願の救いを求める気持ちが出てきたと自覚していますので、19願を引き合いに出し、善を勧められる・求める必要はなくなったと思います。

信心決定しよう、平生に往生治定の身になろう、という心で、求める人は、皆18願の救いを求めている人です。
元自称福徳会員さんは、仏法を聞き求めておられるのですから、18願の救いを求めているに違いありません。

ただ、現在の心がどのようなものであるのかということです。
19願の願力の軌道に載っているときは、以前も書きましたが、「発菩提心 修諸功徳」とな利増す。

一時も片時も急いで信心決定しようという心がおこされた時には、善で助かるとは教えの上では知っていても、なにかせずにおれなくなります。
「急作急修して頭燃を灸うが如くする」というのは、そういう心境なのです。
その時に、何が問題になってくるのか、というのが、「雑行雑修自力の心」であり、その心がどうすれば廃るかと、あちらこちらと真剣に考え、どうしたらどうしたらと行にすがろうとするのが、19願の行者の心です。振り返ればそう知らされます。

弥陀に救い取られた時に、振り返って、あのときは19願の願力で引っ張られていたのだなと分かる時が来ると思います。

信心の沙汰とは、蓮如上人が言われている通り

「信心を取りたるか、取らざるかの沙汰」

であり、信疑の沙汰です。
救われるかどうかは、信疑決判で、疑情(自力の心)が廃ったかどうかで決まります。

そういう沙汰ならば、同行にしろ、布教使にしろ、18願の世界にでた人でなければ、導けないのは、「知識は針の如し、同行は糸の如し」と言われる通りです。

19願の行者について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんからの質問です。

2008-06-05のご回答に対する同意できない点の2つ目です。同意できないと言うより、確認したい点、と言うほうが適切かもしれません。
(中略)
加えているところ、削っているところがあります。私の理解に間違いがないか教えてください。

                                                                                                                      • -

19願は臨終現前の願と言われるようにあくまで救いは臨終来迎です。したがって、『狭義の19願の行者にとって「今が後生となったならどうしよう」、「今救われるにはどうしたらいいか?」と、深刻な問題になってくる』とは思いません。また、諸行往生といわれるように、諸善を行って救われるという願ですので「雑行雑修自力の心」が見えてくるとか、ましてや邪魔になってくるものではありません。
「雑行雑修自力の心」が見えて邪魔になってくるのはそのまま救うと言う18願の救いを求めるからです。佛願の生起本末を聞き、「悪しかできず、一息切れたら後生。自分のやる善は少しも間に合わない」と頭では理解できても、「それではどうしたら『雑行雑修自力の心』が廃るのか?」「『財施や破邪顕正をすれば早く救われるのでないか』という思いが離れきれない」と問題となってきます。このような人を広義の19願の行者と言えるでしょう。ただし、これはあくまで救われて振り返った時に、あのときは19願にいたなと知らされる。

※狭義の19願の行者=まことの善を行い、臨終来迎を求めている者 に訂正

まず、狭義の19願の行者、広義の19願の行者という言い方でありますが、私の方としてはあえて区別してはおりません。

19願は、何の為に建てられた願なのか。ということから言えば、19願の願意は、18願の世界に出させる為以外にありません。

目的が大事という話は、高森先生のご法話を聞かれた方ならいつも聞かれていると思います。タクシーに乗る時にもまず目的地が最初にくるなどなど。

阿弥陀仏が48願を建てられた御心は、あくまで18願であり、18願の世界に出させてみせる、救ってみせるというお約束です。

ですから、19願単独で、「これは諸善をしたら助けるという願だから」という見方はしておりません。
18願で、信楽の身に救うと誓われながら、「なぜ善を勧められたのか」という観点から、今まで書いてきました。

ですから、19願の行者と言っても、振り返っての話ではありますが、あくまで三願転入の道を進んでいる行者ですから、目的地はあくまでも18願です。
19願に誓われている臨終来迎が目的ではありません。
18願の目的地に向っての、手段が19願なのであって、手段が目的になるのではありません。

未信の方で、
「自分は19願の臨終来迎を目指して仏法を聞いている」
という人はないと思います。
いくら、振り返ってみれば19願にいたと言ってもです。目指す目的は18願の救いです。

さて、私の考えでは、広義の19願の行者にとって、「財施や破邪顕正をすれば早く『雑行雑修自力の心』が廃る・早く救われる」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。また、「財施や破邪顕正をすることにより、『雑行雑修自力の心』が見えてきて、邪魔になってくるとだろう」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。そのようなことをすれば、むしろ、今生で救われるためになる(次の生での宿善になるかもしれませんが…)。なぜなら、善をやること自体に心の目が奪われ、『雑行雑修自力の心』をみることに、目がいかないからである。ただし、因果の通りを知らされている仏法者が善を行うことは当然であり、善を行うことを否定するものではない。

なお、狭義の19願の行者とは浄土宗の信者、広義の19願の行者は正しい求道過程の真宗の信者と言えるでしょう。

そこで、元自称福徳会員さんのいわれるところの「広義の19願の行者」についてですが、

財施や破邪顕正をすれば早く『雑行雑修自力の心』が廃る・早く救われる」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。

これについてはその通りです。
言葉を変えて言うと
「財施や破邪顕正の善をすれば、それが間に合って救われる」と思うのも、進めるのも間違いです。それでは「諸行往生」になってしまいます。

また、「財施や破邪顕正をすることにより、『雑行雑修自力の心』が見えてきて、邪魔になってくるとだろう」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。

行者がそのように思って行うのは誤りですが、そのように勧めるのは完全に間違いとは言えません。

信心一つと言っても、その信心とは、真実信心なるが故に、全く知らないものには縁も手がかりもありません。「不可称不可説不可思議の信楽」なのですから。
そういう全く知らないものに対しては、19願を出す以外方法がありません。

当然、財施などの善と救いは関係ないんですが、関係ないことに気づくのか気づかないのかの一点で、気づかない人が圧倒的と言ってもいいです。
気づく人はまさに稀有人といっていいでしょう。

「善悪の判断くらいできる」と、信じ込んでいる人に、「善悪を離れた世界」へ導くには、「じゃあやってごらんなさい」と言うしかないんです。

なんども書きますが、そうやって財施などの善を勧めるのも、あくまで「関係ない」という世界に導くためであって、その財施などの善で救われると教えているのではないということです。

なぜなら、善をやること自体に心の目が奪われ、『雑行雑修自力の心』をみることに、目がいかないからである。ただし、因果の通りを知らされている仏法者が善を行うことは当然であり、善を行うことを否定するものではない。

これについては、自分の行為に心を奪われ、救われるか救われないかについて関係するただ1つの的である「雑行雑修自力の心」にむかないのは間違いです。

手段が目的に変わってしまいやすい人間の自性なのだと思います。
目にも見えない、善悪を離れた信心の世界には心も言葉も及ばれないので、どうしても目に見える、自分のわかる「いろいろな善といわれるもの」が手段から目的に変わってしまうのだと思います。

だからこそ、親鸞聖人の教えでは、まず最初に目的地を示して話をされるのです。
縦の線と横の線を書かれても、最初に説明されるのは、縦の線の左側(目的地)です。
「ここがゴール、ここが決勝点、ここが人生の目的達成した世界、ここが信心決定、ここが無碍の一道の世界」と目的地をハッキリ説明されてから、
「それにはどうしたらいいか」といつも聴聞して来られたと思います。

「行に惑い、信に惑い」と親鸞聖人言われている通りで、どうしても自分の行に惑わされる、行為の善悪にとらわれて、善悪と関係のない信心の世界まで求め抜く人が少ないのは、ひとえに目的地が曖昧になってしまうからです。

もちろん善を行うこと自体を否定していたら、仏教にはなりません。

とはいえ、善悪と関係ない、善悪を離れた世界を明らかにされる親鸞聖人の教えを聞くものが、いつまでも善悪にとらわれて、「これはいいこと」「あいつは悪人」などと、善悪の沙汰(罪の沙汰)ばかりをしていてはいけないのです。早くそういうところを卒業せよといわれたのが

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし(御一代記聞書)

というお言葉です。

前回のエントリーにも一部書きましたが、そういう沙汰が蓮如上人がいわれるところの「信心の沙汰」です。信心を取りたるか、取らざるかとは、「自力が廃ったかどうか」という沙汰であります。

財施などの善と弥陀の救いの関係について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんの、コメントと質問が複数有りましたので、一つずつエントリーを分けて書いていきたいと思います。

頂いたコメントは、以下のものでした。

あなたのご意見は、結局、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉はないし、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」という思いで善をするのも勧めるのも間違いということでよろしいんですよね。したがって、「高森氏のが家を売って、財施し、アパートに住め」というのは別にそれをすることにより、今生において早く救われるからそうしなさいといっているわけではないんですよね。
高森氏の専任講師への「君たちは19願の入り口にも入っていない」というのはどういう意図での発言なのでしょうね。専任講師に何をせよ・どうせよという意図なのでしょうか?(清森問答・自称福徳会員さんのコメント)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment503

まず最初にお断りしておきますが、
「財施や破邪顕正を行うことで早く救われるというのは間違い」
=「財施や破邪顕正をしないほうがよい」
ということではないことを、最初に書いておきます。

私たちがする財施や破邪顕正が、救いと関係ないと言っているだけです。
別の言葉で言いますと、信一念を突破するかしないか、真仮の水際においては、私たちがする財施や破邪顕正といった諸善が間に合うのでもなければ、あまり熱心にしなかったから救われたのでもない、念仏称えたから救われたのでもない、熱心に聞いたから救われたのでもなければ、熱心に沙汰をしたから救われたのでもない、あくまで阿弥陀仏の本願力一つによるという意味で言っているのであって、悪にほこっていいとか、善に励むこと自体が悪いといっているのではありません。


だからやらんでいい、などというのは仏教以前の道徳以下の人の考えです。真宗どころか仏教にもなりません。


よって,家を売って財施云々ということが、それによって救われると言うことになれば、真宗の教えではなくなってしまいます。

では,なぜ財施を勧められるのか,19願で「修諸功徳」と誓われているのかというのが、分かられないところになってくると思います。


救われるかどうかは、財施の多寡でもなければ、活動の多少でもありません、ひとえに自力が廃ったかどうかで決まります。
蓮如上人のお言葉で言えば、「雑行雑修自力の心をふりすてて」と言う時です。


「19願の入り口にも云々」という発言は、教えから言えば
「これだけ善いことしておれば、早く救われるだろう」という気持ちで、善をしている人は、弥陀の救いから言えば,まだ軌道に乗っていないのです。


真剣に救いをもとめて「発菩提心」という心がおこされた人は、いわゆる「後生に驚きのたった人です」
「仏法に明日はない」と我が身の無常に驚いた人が
「これだけ善いことしているのだから、早く救われうだろう」などと、悠長なことを言っておれるでしょうか。
「今が後生」となったなら、「今救われるにはどうしたらいいか?」と、深刻な問題となって悩みます。


そうなった時に、邪魔になり、見えてくるのは「雑行雑修自力の心」です。
「後生に驚きのたった人」には、必ずこの心が問題になり、どうしたらどうしたらと考えずにおれなくなります。

そんな人が19願の行者であって(あくまで救われて振り返ればで、そのときには「俺もやっと19願」などと自覚できませんし、そんな悠長なものではないのです)、そういう意味において、そんな人がいないと言われたのだと言うことでしょう。
あくまでそのときの話のことで、それ以降そんな専任講師がでたかどうかは分かりません。


では、なぜ財施をすすめるのかということですが、これは言葉上からいうといろいろと語弊もありますが、あえて書きますと
「財施等の善に励んだことのない人に『これだけ善いことをしているのだから、信仰がすすむだろう、いざとなったら阿弥陀仏は助けてくださるだろう、臨終までには何とかなるだろう』と、諸善と救いを関係づける自力の心は分からないから」です。


こう書くと、
「といことは、結局善をすれば自力が分かるってことだから、早く救われるということになるではないか」と思われでしょうが、そうではありません。

救われるか、救われないかを決めるのは、「雑行雑修自力の心」が廃った、どうか、これ一つで決まるのです。


「じゃぁどんな関係があるのか?」と聞かれる方もあるかもしれませんが
それが、救いと自分のやった善を関係づける自力の心というのです。

「? これが自力?なんでこんなものが、弥陀の救いと関係あるのか?」
と思う人もあるかもしれません、
「進めば分かります」と
言葉ではそうしか書きようもありません。


弥陀の本願を真剣に聴聞して頂くよりほかはありません。
(だからといって、聞いてさえおればよいというのも、今の救いを求めていない心ですから、それは自力です)

では後生に驚きのたった人は、諸善についてどのように向かうのか、蓮如上人のお言葉で言いますと。

これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章)

自力が妨げになると聞かされても、どうしたら捨てられるだろうかと、求めるのが「いかなる功徳・善根をも修し」です。当然この中には、財施も破邪顕正も念仏も信前の聞法も入ります。


いいかえると「善がまにあうんでないよ、だからやらんでいいんだ」などという心にはならないというとです。


親鸞聖人でさえ「不可称不可説不可思議の信楽」と言われたことです。
言葉では、どう書いたところで、矛盾や不明点はでると思います。


ここからは、私見として書かせて頂きますが、あれほど縦の線と横の線を書かれて、自力他力の水際をハッキリ説かれる高森先生のご説法をお聞きして、「19願の入り口に入っていない」の話から、今日、また未来もそんな人が現れないとは思えないのが私の今の気持ちです。

縦の線を突破して、弥陀の救いに会わせて頂く、それ以外に人間に生まれてきた目的はないのですから。専任講師もそうですが、これは一人一人の問題です。

長々とああでもない、こうでもないと書きましたので、長くなってしまいました。

後の二つ質問がございましたが、また明日書かせて頂きます。

三願転入について2(自称福徳会員さんのまとめの感想)

三願転入の話ですが、善の勧めはあるかないかということが、いろいろと問題になっているようです。
結論から言いますと、「善の勧め」と言った場合の「善」は信心決定です。
それ以外の善ってなんでしょうか。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのか?」とか真顔で言っているのなら
「親鸞聖人の教えに、信心決定の勧めはあるのか?」と言っているのと同じことだと気がついてください。

真宗で、もし「私たちの考える善の勧め」が教えの主体として教えていれば、浄土真宗には成りません。

ちょっと前にも書きましたが、弥陀の救いを真剣に求める人が、求める善ってなんですしょうか?捨てるべき悪とはなんでしょうか?それこそ仏願の生起本末からいえば、おかしなところは有りません。

そういう意味で、善(信心決定)の勧め、「信心決定せよ」は親鸞聖人の教えです。

よって、

・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない。「佛願の生起本末」を聞けば行った善や念仏は機に従い、19願や20願の心で行ったことになる。

19願も、20願も阿弥陀仏が本願を建てられた御心からすれば、「19願や20願の心」とは、「信心決定せよ」との御心です。
別に分かれた心があるのでは有りません。
自分のやる善になにか段階を付けられるような善ができるとでもいうのでしょうか?

・三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。諸善を勧めるのであれば体失往生を目的にして諸善を勧めるということになる。しかしこれは真宗の教えではない。ただし、体失往生を目的にして諸善を行うと、結果として 20願に進むことになる。だからといって、20願・18願に進むために善をせよと勧めるのは間違い。

ここも「善=人間の思う良い行い」という定義で言えば、話はその通りです。
しかし、「善=信心決定」と見ると、話は変わってきます。
「18願に進む為に、善をせよ」=「信心決定の世界にでる為に、信心決定せよ」と言うことです。
文字にすると文章になってないでないかと思われるかも知れませんが、「救われる為に、行者が○○せよ」と言ったら、「○○」に何を入れても自力が間に合うことに成り、間違いです。
御文章に書かれてあることも、
「どうしたら弥陀に救われるんですか?」
「雑行を捨てよ、弥陀たのめ(救われろ)」
平たくいえばこういうことです。
どうすれば、という方法論は何を書いても自力ですから、自力を捨てて他力に帰する真宗の教えと合わなくなります。

・真宗において「仏法は諸善に極まる」、「仏法は念仏に極まる」という言葉はない。真宗の教えは「仏法は聴聞に極まる」であり、「佛願の生起本末」を聞くことである。
・上記のことを勘案すると専任講師が何十年もまじめに求めていても一人も救われていないと思われるのは求め方が間違っている可能性が考えられる。
・上記は善をすることを否定するものではない。

まじめに求めている=聞き間違いをしていない といことでは有りません。
何十年聞いたかということよりも、正しく聞くということが大事なのです。

自称福徳会員さんの言われる通り、「仏法は聴聞に極まる」です。

最後に2チャンネルに私の主張したいことの約半分を短い言葉で表現されているものがありましたので紹介したいと思います(私の書き込みではありません)。

問題なのは、三願転入は信後に知らされる求道過程の告白なのに、
それを信前の求道の指針のように話されている点。

これは自称福徳会員さんの書き込みではないですが、「信前の求道の指針のように話されている」のは誰のことでしょうか?
親鸞聖人の三願転入の教えを正しく聞けばそのようには聞けないはずです。
理由としては、19願や20願の話を親鸞会で高森先生から聞かせて頂いても、ただの一度も、その善が間に合って助かるという話は聞いたことが有りません。
全部間に合いません。
間に合わないということから言えば、救いと財施などの諸善は無関係です。

1円も1億円もそういう意味では財施しても変わりません。
これだけしたから間に合うだろう、足しに成るだろうと思うのは、聞いた人の思っていることで、話としては聞いたことが有りません。

私の白道にも、「諸善が間に合うように勧めてきた」という元講師部員の投稿が書かれていますが、被害者のように書いていますが、同じ話を聞いていた者としては、「親鸞聖人の教えをそのように聞き誤ったのは一体どこの誰なのか」と言いたいところです。

本当に間違いだと教えを正しく理解していれば、自らが加害者には成らなかったのではないでしょうか。

三願転入について1(自称福徳会員さんのまとめの感想)

自称福徳会員さんがまとめられた三願転入について、思ったことを書きます。

・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない。「佛願の生起本末」を聞けば行った善や念仏は機に従い、19願や20願の心で行ったことになる。

「仏願の生起本末」を聞く聞法心とはどういう心なのでしょうか?
真剣に救いを求めてということなのだと思いますが、19願、20願を説く必要はないとなると、善導大師も、七高僧もみんな間違いということでしょうか?

「振り返れば三願転入だった」と知らされるということと
「説く者が、19願の教え、20願の教えを説く必要がない」ということはイコールでは有りません。

「仏願の生起本末を聞く聞法心がある人」というのは、どういう人か、蓮如上人が御文章で言われる宿善の機のことです。
私も仏法を聞かせて頂いておりますが、なかなかこの宿善の機と言う方にはお会いできません。
そんな方がおられれば、もちろん信疑決判で、真仮廃立の親鸞聖人一流の教えを徹底してお話すべきでしょう。
聞く方(宿善の機)は、そこ一つが聞きたいのですから。
善が間に合うかどうかなどと、議論をしているのは、まだ宿善の機ではないのです。

しかし、そんな心に成らない人に、18願(真仮廃立)のことを話したらどうなるでしょうか。

されば無宿善の機の前に於いては、正雑二行の沙汰する時は、却りて誹謗の基となるべきなり。(御文章3帖目12通 宿善有無)

と説かれている通りです。

そんなことをいったら、無宿善がほとんどではないかと言われるかもしれませんが、蓮如上人がここで言われる宿善の機は少なく、無宿善の機が圧倒的に多いのです。
真宗で信を得る人が、国に一人、郷に一人といわれるゆえんです。

そういう意味で

・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、「三願転入するためにまず、19願で説かれている善をせよ」というのは間違い。

これは正解です。
聞く人が、宿善の機ならばという前提はつきます。
参詣者のほとんどが、無宿善の機と成れば、19願の教えを説いたからといって、即座に間違いとなるのは早計ではないでしょうか。

しかし、高森顕徹先生のご法話が、19願の教えのみに終始しているとは思いませんし、「「三願転入するためにまず、19願で説かれている善をせよ」とは聞いたことが有りません。
毎回縦の線を書かれてるのは、真仮廃立を毎回明らかにされているからです。

続きもすこし書きたいことが有りますが、今日はこれでいったん書き込み終わります。

自称福徳会員さんの質問に答える問2〜4

2.「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」の蓮如上人のお言葉について
親鸞会では『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない。だからこのお言葉が「蓮如上人が善を勧めたお言葉である」』と教えています。『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない』までは同意します。しかしながら、これは善を勧めたお言葉ではなく、『「信心ひとつで助かる」と聞かされても、それでも出てくる「善で助かろうとする心」を捨てよ』ということではないでしょうか?「新たに持ってから捨てなさい」ということではなく、「すでに持っていることに気づいてそれを捨てなさい」という御心と思いますがいかがでしょうか?

「雑行をすてよ」とは、文字通りの意味です。
「善を勧めたお言葉」で有りますが、「善をしたら助かる」という意味では当然ありません。
「善で助かろうとする心を捨てよ」と言われているお言葉です。

「善をする」ということと、「善をすることで助かろうとする心」は全く別問題です。
その自らの行為と、弥陀の救いはまったく関係ありません。

弥陀の救いについて問題になるのは、あくまでも雑行雑修自力の心です。
また自力の心自体はもともと持っているものには違い有りませんが、そこに気づくまですすむ人がなかなかいないので、信心をうるひと稀なりと言われるのです。

3.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。 あくまで18願の救いを求めている機に対してのお言葉をお示しください。

ご本人からの解説

質問3は質問1−2で親鸞会が「18願に救われるため今生で一生懸命善に励みなさい、家を売ってまでも親鸞会に財施しなさい」とする主張の根拠として代表的に引用している親鸞聖人・蓮如上人のお言葉の解釈は怪しいので、「ダイレクトに親鸞会の主張を支持するお言葉を提示しなさい」ということです。

結論から言いますと「善を行うことで早く救われる」という教えは真宗に有りません。
親鸞会発行の本を読んでもそういう部分は見当たりませんでした。

善を勧めると聞くと、「そうすれば早く救われるからだろう」と思う人も多いですが、まったく救いとは関係ありません。
自力が廃るか廃らないかは、まったく南無阿弥陀仏の働きによる物であり、わたしたちのやった行為がさし挟まる余地はありません。

「あんなに善を勧めなくてもいいのに」という主張に対する反論文章はみることが出来ますが、これも「善の勧め」が「ある」か「ない」かということを通して、「ない」という側の主張の底にある、自らの行いの善し悪しで、救いの時期が早くなったり遅くなったりする心を問題にしているのだと思います。

質問者自体も、法施や財施が、救いと関係あるのかないのか、ないとしたらなぜすすめるのかということを疑問に思われてのことなのでしょうが、関係有りません。

ただ、善い行いには必ず良い結果が返ってきます。因果の道理はいつでもどこでも変わりません。「これだけ善いことしているんだから助けてくれるだろう」と、弥陀の救いに予定を立てる心を自力というのです。

ついでに言いますと、
「これだけ善いことしているのだから少しは阿弥陀仏からご利益あるだろう」という心も、「阿弥陀仏」を、「天理教」や「○○神」「○○菩薩」に置き換えてもまったく変わりません。
そんな心を雑行といわれるので有って、それを捨てよといわれるのです。
浄土真宗の信心は、そういう信心(雑行)では有りません。

4.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森顕徹先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

質問4は「誤った教義により、レールから外れた求道となり、講師の方でも何十年経っても救われないのではないのですか?」ということです。

結論から言いますと、「講師(坊主)が早く救われるという教えは真宗にありません」
御文章を拝読していると、坊主が信心を得ずに、ご門徒に信心を得ている人がいるというような描写があちこちに出てきます。
また、財施や破邪顕正をしたから助かるという教えでもありません。あくまでも阿弥陀仏の本願力によるのです。
では、財施や破邪顕正はやるだけ無駄なのかという質問もでると思います。

まったく無意味なのか、弥陀の救いにあうための足しになるという意味では、成りません。自力が間に合って助かるということに成るからです。

また誤った教義というよりは、教義の聞き誤りということです。私も高森顕徹先生から親鸞聖人の教えを聞かせて頂いていますが、今日まで、「財施をしたら助かる」とか、「破邪顕正すれば助かる」などということは一度も聞いたことが有りません。
本にも書かれていません。

19願の善の勧めと、その通りしたら救われると関係づけるのはあくまでも聞いた側で有り、私はそのように聞いたことは有りません。

もし親鸞会での教導が本気でそんなことを思ってやっているのであれば、教義上は間違いに成ります。

自称福徳会員さんの質問1つ目

これから、以下の質問について、一つずつ書いていこうと思います。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

これについては、質問者の「自称福徳会員」さんから、解説文をコメントでかいていただきました。

質問1の解説
1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を出でて(修正)、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

親鸞会の教義:すべての人は三願転入して救われる。そのため救われていないすべての人は18願の救いを求めて19願で教えられている諸善の代表である財施や破邪顕正を一生懸命やりなさい。そうすればやがて20願に進み、18願で救われますよ。それが善知識方のお導きにより、親鸞聖人の通られた道であり、それを教えられたのが三願転入のご文ですよ。

異議:「18願の救いを求めて19願で教えられている諸善を行いなさい」という教えはない。親鸞聖人は双樹林下=体失往生を求めて諸善を行っていたと書かれていると解釈すべきである。これはまさしく、体失・不体失往生で破られた心である。
三願転入のご文の導入部は「善知識方のお導きにより、親鸞聖人は過去世も含めて長い間持っていた19願の心(諸善を行って19願で教えられている往生をしようとする心)を離れて、20願に進まさせていただいた」と解釈できる。つまり、三願転入のご文で今生において諸善をしなさいと進めているわけではない、ということです。
なお、私は親鸞聖人に善の勧めがないといっているのではありません。また、比叡の山での20年のご修行がまったくの無駄だったかというとそうとも思いません。仮に比叡の山での20年のご修行がなく、法然上人のご教導に会っていたとしたならば聖人が救われるのにもっと時間がかかっていたかもしれません。しかし、余計にかかった時間が1秒なのか1日なのか、1年なのかわかりません。聖人が9歳で出家されたとき、法然上人はすでに弥陀の救いを説いていたわけですが、仮に聖人が9歳で法然上人に出会われ、比叡山の修行がなかったとしても、救われていたと思いますし、それは29歳の春よりも早く救われていたと思います。
私が主張したいのは「18願の救いを求め、自己の現在の姿を見ていくことがより重要であり、『目標を設定し財施や破邪顕正の活動が足りないとか目標に届くとか届かないとか』と思って求道するのはレールからはずれていますよ」ということです。
それと「18願の救いを求めて19願で教えられている諸善を行いなさい」という教えは真宗にもないし、浄土宗にもないということです。

まず、三願転入のご文は、親鸞聖人が自ら救われた体験を告白されたものですが、当然、弥陀に救われたあとに、自らの求道を振り返ってかかれたものです。
親鸞聖人ご自身も、阿弥陀仏に救われる前に「自分は今19願にいる」「よーし20願にはいったぞ。あと少しで18願だ」と、自覚して、求道されたということではありません。

すべての人が通る道には違いありませんが、心の道であり、19願によって進まされたとか、20願の願力によって、ということは、救われて初めてわかることです。

しかし、救われた人は、必ず三願転入の道を通って救われるということは共通したことです。

そこで、自称福徳会員さんの質問について、親鸞会では

べての人は18願の救いを求めて19願で教えられている諸善の代表である財施や破邪顕正を一生懸命やりなさい。そうすればやがて20願に進み、18願で救われますよ。

と教えているということでしたので、調べてみました。
「こう聞いた、あぁ聞いた」では、人それぞれなので、「こんなことが知りたい4」を読んでみると以下のようにありました。

この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
 その体験を三願転入というのです。

19願、20願を通らなければならないとは、ありますが、善をしたらやがて20願に出れるとは書いてはありませんでした。

教義というのは、書かれたものか、本人に直接聞かねばわからないものです。本人に聞くということはなかなか難しいので、かかれたものを参照しました。

善をしたら救われるという教えは、おっしゃるとおり、浄土真宗の教義にはありません。

ただ、善をしなくていいというのも、「善をしないほうが信仰が進む」という考えなら、同じく間違いとなります。

本当によいことなら、大いにするべきです。
ただ、それを救いの足しにしたりしようとする心が問題なのです。
やった善根を往生と関係付けることはできません。

真宗の教えは、諸行往生ではなく、不体失往生、信心正因 称名報恩です。

最後に、三願転入の体験告白は、心の道程であり、体で、これだけ財施をしたとか、したから進んだという類のものではないということを追記しておきます。

もしこの記事を読まれている人がいたら考えてみてください。
19願で言われる「修諸功徳」(諸々の善をしなさい)、「廃悪修善」(悪をやめて、善をしなさい)の、善とはなんでしょうか。悪とはなんでしょうか。

弥陀の浄土に生まれたい、信心決定したいと、わが身の無常に驚いた人が、頭燃を灸う気持ちで、救われるために捨てようとする悪はなんでしょうか。救われるためにしようとする善とはなんでしょうか。

長くなりましたので、続きはまた明日にでも書きます。