安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」の真仮とは何ですか?(頂いた質問)

教行信証真仏土巻の「既に以て、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり。」を、「真(真実)仮(方便)ともに、『すべての人を絶対の幸福に救い摂る』弥陀の大慈悲心から建てられた本願である。」と、3月号の顕真に書いてありましたが、原文を読むとこれも違うように思うのですが、ここはどういう意味なのでしょうか?(頂いた質問)

結論からいいますと、顕真3月号、顕正新聞3月15日号に掲載された「意訳」は間違いです。
「真(真仏・真土)仮(方便化身・仏土)は、阿弥陀仏の本願の結果として成就したものである」という意味です。


元の真仏土巻の文章は、少し長いので大まかにどういう事が書かれてあるかを書きます。(全文は文末に掲載)

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。」といわれ、阿弥陀仏の本願が成就した結果として浄土はあるのだけれども、阿弥陀仏の本願に真と仮があるので、浄土と言っても真の仏土と仮の仏土があるといわれています。


次に「選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。」といわれています。
阿弥陀仏の第18願によって、真仏土は成就したのだといわれています。
もう一つの化土について、「仮の仏土とは、下*1にありて知るべし。」といわれています。化土については、次の化土巻に説明するということです。


その後に「すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。」といわれています。
真の仏土も、仮の仏土も阿弥陀仏の本願の結果として成就したものだから、「報仏土」です。阿弥陀仏の本願を因とした場合、因に報いて結果として成就したものであるということです。


その後「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。」と結論を書かれます。
阿弥陀仏の本願に真と仮があることを知らないから、阿弥陀如来の広大なご恩を受け取ることが出来ないのである。だからこの真仏土巻で、真仏と真土を明らかにした。これが真宗の正意であるといわれています。


真の仏土は、18願によって成就した浄土であり、化身土は、19願、20願を真実と思って実行する行者が往生する世界です。
19願や、20願を真実と思い、18願真実を知らない人は阿弥陀如来の広大なご恩も知らされないし、真仏土に往生し即成仏することはありません。

真仮を知らないと親鸞聖人が仰るのは、19願、20願を真実だと思って実行している人のことです。実行している人に「それは真実ではないよ、方便だよ」というということは、「それは真実ではないから早く離れなさい」「真の仏土には往生できないよ」と、方便を戒められているのです。
決して方便の行や信心を勧めておられるのではありません。


「19願も、20願の阿弥陀仏が建てられたのだから必要に決まっている」というのは「19願、20願の行者が参る浄土も阿弥陀仏が建てられたものだから報土であり必要に決まっている」と、当時の聖道門や浄土門の人が言っていたのと同じ理屈です。
それに対して「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。」と仰っています。本願の真仮がわからないから、報土の真仮もわからない。阿弥陀仏阿弥陀如来の広大なご恩も知らされない。真仏、真土を明らかにして、これが阿弥陀仏の本願の本当の御心であると教えておられます。

19願は必要かどうかというのは、「お釈迦様が教えとして説く必要があったかどうか」という意味ではなく、「私が実行する必要があるかどうか」です。
親鸞聖人は、方便の行と信を戒められました。教えを否定されたのではありません。

勧めておられるのは「真仏・真土」であり、ただ今救う本願力によって往生定まる身に救われることです。その阿弥陀仏の本願にただ今救われてください。

参照:教行信証真仏土巻 浄土真宗聖典(註釈版)P372

 それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
 選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。真仏といふは、『大経』(上)には「無辺光仏・無碍光仏」とのたまへり、また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経・上)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」といへり。真土といふは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経・二)とのたまへり、あるいは「諸智土」(如来会・下)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」といふなり。
往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。
 仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

*1:下・・次の「化身土巻」のこと。

三願転入について前回の補足

前回のエントリーの補足です。
「三願転入の教えのみ教行信証に説かれている」のではありません
こう言いますと、三願を説かれたのが親鸞聖人ではないかという方がありますが、19願、20願は化土巻に書かれています。
化土巻に書かれていると言うことは、勧めるためではなく、真実をハッキリと教えるために、捨て去るべきものを詳しく教えるためでした。
何が真で何が仮なのかを書かれたのが化土巻です。

親鸞聖人の教行信証信巻(末)のお言葉から、その化土巻で書かれる内容について仰ったことについて書きます。

仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(教行信証信巻

仮というのは、自力聖道仏教をしている人であり、阿弥陀仏の本願を聞きながら定善や散善をする諸行往生を願う人や、自力の心で念仏を称えて往生しようとするものは、みな真実を見誤った仮の仏弟子であると言われているのです。
その内容を詳しく解説されたのは、化土巻の十九願釈、二十願釈です。

よって、十九願や二十願の行人になれといわれたのではなく、そんなものは真の仏弟子ではないということを示すために書かれたものです。
三願を説かれたのは、19願→20願→18願と進みなさいというご教導ではなく、19願、20願は捨てものですよ、早く18願真実に救われなさいよと教えるためでした。
よって、「三願転入の教えのみ教行信証に説かれている」というのは間違いです。

「三願転入の教えのみ教行信証に説かれている」のでしょうか?(頂いた質問)

「三願転入の教えのみ教行信証に説かれている」と、聞きましたがどういう意味でしょうか?(頂いた質問)

三願転入の御文は、教行信証にかかれてありますが、「三願転入の教え」という言葉はありません。

親鸞聖人の教えとは、教行信証教巻の冒頭にあるとおりです。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証教巻

浄土真宗とは、二種の回向(往相回向、還相廻向)です。言葉を換えれば本願力回向が浄土真宗です。本願力回向とは、阿弥陀仏が私を救うためにご自身の全ての徳を名号にあらわされ私に与えて下される働きのことです。私の善根を阿弥陀仏に差し向けることではありません。

続けてこう言われています。

ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教行信証教巻

阿弥陀如来の本願(第18願)を説くことが、大経の教えのもっとも大事なところであり、すなわち南無阿弥陀仏をもって経の本体とするといわれています。

本願力回向であり、南無阿弥陀仏が親鸞聖人の教えです。
ですから親鸞聖人の教え、教行信証にお書き下された浄土真宗の教えとは、本願力回向であり、第18願であり、南無阿弥陀仏なのです。
「三願転入の教えのみ教行信証に説かれている」のではありません。

菩提心とはなにかについて(1さんのコメントより)

1さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
分かりにくい内容で申し訳ございませんでした。

以前宮田さんは、菩提心とは、ただ今弥陀に救われたいとここ一つ聞きたいの問法心と答えておられましたが宮田さんの言うことがコロコロ変わっているように思います。どういうことなのでしょうか?(1さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090520/1242818416#c1242823374

回答いたします。
お尋ねのことは、エントリーの以下の箇所だと思います。

阿弥陀仏が私たちに対して「至心発願させる」ということです。阿弥陀仏の浄土に何とか生まれたいという願いを起こさせることです。何とか弥陀の浄土に生まれたいという最初の心を菩提心ともいわれて、菩提心をおこさせると誓われています。
死と無量寿について(Kさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

阿弥陀仏の第19願について、以前は菩提心をここ一つ聞きたい聞法心といっていたけれど、この文章では至心発願も菩提心になるので、言うことが以前と違うのではないかというお尋ねだと思います。

設我得仏 十方衆生
発菩提心 修諸功徳
至心発願 欲生我国
臨寿終時 仮令不与 
大衆圍繞 現其人前者
不取正覚(阿弥陀仏の第19願)
(設い我仏を得んに、十方の衆生、菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生れんと欲わん。寿終るの時に臨みて仮令大衆と囲繞してその人の前に現ぜずば、正覚を取らじ。)

阿弥陀仏が、十方衆生を相手に「発菩提心〜現其人前者」してみせると約束をされたものです。
「発菩提心」(菩提心を発させる)してみせると、約束をされています。
「修諸功徳(諸の功徳を修めさせる)してみせると約束をされています。
「至心発願欲生我国」(まことの心で極楽浄土へ往生したいという願いを起こさせる)してみせると約束をされています。

「私が」菩提心をおこして、諸の善を行ったら、まことの心になって極楽に生まれたいと思うようになるということではないという意味で上記の、主語を阿弥陀仏にして解説をしてきました。

「発菩提心」の「菩提心」も、菩提を求める心ですから、どんな心かと言えば、「弥陀の浄土に生まれたい」という心であり、そのために「ここ一つ聞き抜かねば」という心であり、「至心発願欲生我国」の心と、阿弥陀仏に救われるまでに、阿弥陀仏におこされる心という意味で同じものと表現をしました。

ご不明な点があれば、またコメントをお願いいたします。

阿弥陀仏の願力によって善をさせられるのかについて(Tさんのコメント)

Tさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏の19願の願力、20願の願力によって、阿弥陀仏が18願の世界に出させて下さる」(「聴を通らなければ聞には行けない」のでしょうか?(メールより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

とは具体的にどういうことでしょうか。
阿弥陀仏の19願の願力によって、功徳を修めさせられるということと理解してよいでしょうか?(Tさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090519/1242726943#c1242731162

回答します。
阿弥陀仏の目からご覧になると、功徳を修めさせるということになります。
阿弥陀仏の第19願は、阿弥陀仏の願ですから、阿弥陀仏が十方衆生に対してこのようにしてみせるというお約束です。
阿弥陀仏が、十方衆生に対して、菩提心を発させてみせる、そして、諸々の功徳を修めさせてみせると誓われたお約束です。

諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

親鸞聖人がご和讃に言われているように、「至心発願せるゆえに」というのは、阿弥陀仏が私たちに対して「至心発願させる」ということです。阿弥陀仏の浄土に何とか生まれたいという願いを起こさせることです。何とか弥陀の浄土に生まれたいという最初の心を菩提心ともいわれて、菩提心をおこさせると誓われています。私が菩提心をおこすのでも、私が至心発願するのではありません。あくまでも阿弥陀仏の願力によって発させるということです。

阿弥陀仏に救われれば、阿弥陀仏の働きによって動かされ、押し出されたのだと知らされますから、「遠く宿縁を慶べ」と親鸞聖人はいわれています。

「聴を通らなければ聞には行けない」のでしょうか?(メールより)

メールを頂きましたが、内容が大事なことだと思い、エントリーします。

「聴を通らなければ聞には行けない」「弥陀の三願のみ心一つを釈尊は45年間説かれた。聴とは仏教のすべてをきくこと、まずは因果の道理から。きいておるだけではだめ。実行しないと。」との話で終わりました。救いに4段階あるようにも聞こえるし、聴聞の聴くが、仏教のすべてをきくとなると、仏教は名号一つ教えられたもの、願成就文の教えだけといわれたのに、また仏教全体に戻ってしまっていてぐるぐるまわっている気がしました。(私は、聴聞とは「仏願の生起本末を、疑心あることなしとなるまできくことだ」と説明されると思っていたのですが・・。)(メールより抜粋)

浄土真宗の法座で、仏教のすべてを聞くためにまずは因果の道理からというのは、話の道理にあわないところです。まずは因果の道理を聞いて実践している間は、弥陀の本願を聞かなくてもよいということなのでしょうか?
この言い方ですと、弥陀の本願を聞く資格を取得するために、因果の道理を実践し、廃悪修善につとめるようにしか聞けません。

親鸞聖人が、聴聞の聞くということについて、メールで頂いた文面にあるように言われています。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)

「聞」とは、阿弥陀仏が本願を起こされた本末を聞いて疑心有ることなしであるといわれています。これは南無阿弥陀仏を頂いて、願に相応する身になったことをいわれています。

「聴を通らなければ聞には行けない」?

この言葉遣いは、主語抜きのトリックです。
主語が正しければ、問題ない言い方になりますが、主語が違えば、浄土真宗の教えと反対の意味になります。
この「聴」=19願の願力、20願の願力、「聞」=18願の救いということで、以下のように阿弥陀仏を主語として説明をする分には問題はありません。
「阿弥陀仏の19願の願力、20願の願力によって、阿弥陀仏が18願の世界に出させて下さるのだから、この願力のはたらきによらねば、18願の世界には行けない」

しかし、「通らなければ」という言葉は、「私が実行しなければ」としか、一般には理解されない言葉です。主語がなくても文章は成立しますが、この省略された主語は一体何なのかということが問題なのです。
「私が、19願の諸善万行を実行しなければ、18願の世界にでることはできない」というならば、阿弥陀仏の19願を、私が実行して救われるということになります。

御文章には、このように言われています。

南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、その他万善・万行も、悉くみな籠れるが故に、何の不足ありてか諸行・諸善に意を留むべきや。(御文章2帖目9通・忠臣貞女・外典)

往生浄土する働きは、この南無阿弥陀仏に収まっているのだから、その上なんの不足があって諸善をして足しにしようというのだろうかといわれています。

南無阿弥陀仏だけでは、足りないから諸善を足してたすかりなさいと言う本願ではありません。

その名号の話をして、「聞其名号」の部分の解説をしているはずが、いつのまにか因果の道理にしたがって実行(廃悪修善の実行)しなさいという話になれば、聞かれた方が混乱するのは当然のことと思います。
「信心決定あれかし(聞其名号あれかし)」(ただ今信心決定しなさい)から、「信心決定するための資格を取得しなさい」と、救いにいくつも段階を設けることは求める人の内心にあってとしても、説く者がそれを助長するのは大変な間違いです。

阿弥陀仏の三願か私の三願か?(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。また他、あほうどりさん、くりいむれもんさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

善知識方は、18願のみを説き勧められた(願力によって19願20願の心になるから)のか、19願20願も、別で教え勧められたのか(その場合どのように教えられたのか)気になっています。
「19願は18願に入れるための方便だから、諸善をしないといけない」との言い方は、言葉としては合っている(間違いではない)のでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090411/1239408233#c1239461151

19願=私が善をする 20願=私が念仏を称える という願ではありません。
18願、19願、20願の三願は、阿弥陀仏が建てられた三願です。
「設我得仏 十方衆生」は、三願共に共通したお言葉です。
これは、「阿弥陀仏がすべての人と約束をする」という願です。
ですから、「発菩提心 修諸功徳」と19願で誓われたことも
「十方衆生に 菩提心をおこさせる、諸の功徳を修めさせる」という願です。
その阿弥陀仏の三願を、私の三願にしているところに混乱の元があります。

「19願は18願に入れるための方便だから、諸善をしないといけない」との言い方は、言葉としては合っている(間違いではない)のでしょうか。

この言い方には主語がありません。日本語は主語が無くても会話としては成立する言葉なので、便利な一方意味が混同しやすい面があります。上記の言い方に主語を加えると
「阿弥陀仏が建てられた19願は、阿弥陀仏が18願に入れるための方便として、阿弥陀仏が建てられた方便だから、私が諸善をしないといけない」となります。
こう書くと何か違和感を感じられないでしょうか?
主語が異なる文章が、一つの文章として言われていることに気がつかれると思います。

詳しくは、また追ってエントリーをします。
18願のみを説かれたのかということについては

如来所以興出世
唯説弥陀本願海(正信偈)
「如来世に興出したもう所以は 唯弥陀の本願海を説かんがためなり」

お釈迦様が仏教を説かれたのはただ、阿弥陀仏の本願一つを説かんがためなりと、親鸞聖人はいわれています。その阿弥陀仏の本願を「18願のみ」というか、「48願すべて」というか「48願はすべて18願におさまるという意味で、18願」というかという問題になります。

18願だけを強調するのが悪いというのならば、「信心為本」の教えが悪くなるということになります。「信心為本」の強調と、善をすることは矛盾しません。相反すると思う人は、信心為本を誤解していると言うことです。

とりいそぎ書きましたので、またこちらも追ってエントリーを書きます。
昨日はコメント多数頂きながら対応できておらず、申し訳ございませんでした。

領解文と三願転入について(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「蓮如上人の『もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて』が、19願20願を教えられているのだから、蓮如上人も常に三願転入を教えられている」と言われました。私は18願を教えられたお言葉のように感じるのですが、もし三願転入を教えられているとすると、19願を「誠の心で善をしなさい」ではなく「雑行を捨てよ」と蓮如上人は教えて行かれたことになります。(持たないものに捨てよとは言われないから、直接書かれていなくても、善を勧められている大前提があっての言葉だとの講師の話です)正直???です。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090409/1239265511#c1239318424

蓮如上人の領解文についてのお尋ねです。

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。(領解文)

お尋ねの件ですが、蓮如上人も常に三願転入を教えられているという話の割には、maryさんがお尋ねの会では領解文の話はあまり聞いたことがありません。
雑行のものがら自体は、諸善万行、雑修は五正行(念仏)なので、それぞれ19願、20願と当てはめて話をしているのだと思います。どうも蓮如上人も善を勧められたということが言いたいようなのですが、話を領解文にもってくると混乱すると思います。

この領解文の意味は、「たのむ一念」についていわれたものです。「たのむ一念」に「もろもろの雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」、「一心に『阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御助け候え』とたのみ申して候」するのだと言われています。自力の心を振り捨てて、阿弥陀仏をたのめと言われているお言葉です。それが往生一定となった、たのむ一念のときであるといわれています。

(持たないものに捨てよとは言われないから、直接書かれていなくても、善を勧められている大前提があっての言葉だとの講師の話です)正直???です。

「仏教では」善のすすめは、大前提です。蓮如上人も勧められました。
「たのむ一念では」諸善をしろとはありません。雑行・雑修・自力の心を振り捨てよと言われています。この「仏教では」と「たのむ一念では」を混同しているところからくる混乱です。

この「蓮如上人も三願転入を教えられている」という「三願転入」は、区別をつけるために【その人がいう三願転入】とします。
【その人がいう三願転入】とは、以下のようなものを想定しているのだと思います。

  1. まず諸善を真剣に実行する(19願のステージ)
  2. 善の出来ない自分が知らされる
  3. 念仏を称えずにおれなくなる(20願のステージ)
  4. 念仏も善も間に合わなかったと知らされる
  5. 自力無功とハッキリ知らされる
  6. と同時に阿弥陀仏に救われる(18願に転入)

上記のように書くと【そのひとがいう三願転入】と領解文は、まったく異なるものを指しているということになります。同じだというならば、「たのむ一念で三願転入する」といって、違和感を感じないはずです。
ただ【そのひとがいう三願転入】では、「たのむ一念で三願転入する」ことはできません。

持たないものを捨てよとは、誰もいわれませんが、捨てるべきものがらは、自力の心であって、諸善を実行して知らされるとか知らされないとかいうこととは関係ありません。あくまでも阿弥陀仏のただ今の救いに向かうかどうかなのです。諸善をしたから、自力の心が問題になると言うような関係性はありません。関係があるならば、「諸善をしなければ救われない」と言うことになってしまいます。

また、体失不体失往生のジョウ論(く口伝抄)で善恵房に対して「諸行往生の機だから本願にあらず」と言われているので、法然上人が「誠の心で弥陀の浄土に生まれたいとおもって善をしなさい。そうすれば助かりますよ。」と教えておられたとは思えません。
19願20願の、善知識の教えられ方はどうなのか、ということだとは思うのですが、難しい話になってきて???です。

本願にあらずというのは、阿弥陀仏の18願の救いではないということです。現在ただ今の救いではないという意味です。
前段については回答をいたしましたので、後段についてまたご不明な点があれば、お尋ね下さい。よろしくお願いいたします。

求道が目的ですか?信心決定が目的ですか?(よこやりさんのコメント)

よこやりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

三願転入で「善知識に勧められて、19願の修善を長く(久しく)やって、そこから出て20願に進んだ」
と書かれてあるから、「私たちもまず19願の修善を真剣にしなければ18願まで進めないのだ」と、友人は言います。
先日の教学講義でも、善ができるとうぬぼれている私たちは、三世の業障(罪悪)もわからず、よって、弥陀にまかせる気持も起きないから、善ができるかどうかやらせるしかないと、お釈迦様は因果の道理を説かれ修善を勧められた、と
お聞きしました。
19願の教えにしたがって修善をしなければ18願の世界には出れない道ということでしょうか?
結局、18願に出るには、教えられた通りにとにかく修善をやっていくしかないのでしょうか?
何度も同じような事をお聞きしてすみません。結局どうすればいいのだろうか、とグルグル戻ってきてしまいます。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090224/1235434008#c1235480095

回答いたします。
結論から言いますと、阿弥陀仏に救われるということは、修善の結果ではなく、あくまで雑行雑修自力の心が廃ったかどうかです。「善をしなければ救われない」というと、「善をすれば助かる」と言うことになってしまいます。そうなると、あと一刹那で臨終という人は、善ができませんから助からないと言うことになります。昨日仏法を聞き始めた人も助からないと言うことになります。前回も書きましたが、19願も18願もすべて阿弥陀仏の願であって、私の願ではありません。

問題は、「求道がしたいのか、信心決定したいのか」ということです。
善を勧めるのは当然のことで、悪をしろといわれている仏教はどこにもありません。善をしろといわないと善をしようという心がないと決めつけるのは、性格が悪い人なのかもしれません。誰しも困った人をみて助けようという心はあるでしょう。
善悪を問題にするのは浄土真宗ではありません。なぜなら、阿弥陀仏に救われるかどうかは、善ができたからでもなければ、悪をしなくなったからでもないからです。

某(親鸞)はまったく善も欲しからず、また悪も恐れなし。善の欲しからざる故は、弥陀の本願を信受するに勝れる善なきが故に。(覚如上人・口伝鈔)

親鸞は、まったく善も欲しいとも思わないし、悪を恐れる気持ちもない。善を欲しいと思わない理由は、阿弥陀仏の本願に救われる(信心決定する)以上の善はないからだ、といわれています。
この親鸞聖人のお言葉には、「善」という言葉が二つ出てきます。同様の言葉は、歎異抄にもでてきますが、「善も欲しからず」といわれた「善」と、「弥陀の本願を信受する(信心決定)に勝れる善なき」というところの「善」は、別物だとおわかりだと思います。

加えて

往生においては、善も助けとならず、悪も障とならず(覚如上人・口伝鈔)

といわれています。弥陀の浄土に往生するには、善も助けにならないし、悪も障りとならないと言われています。

往生と関係ない(助けともならず)のがいわゆる善といわれるものです。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、「皆々信心決定あれかし」ではなかったのでしょうか?
それからしますと、釈尊を始め、善知識方が勧められた「善」とは、「阿弥陀仏の本願を信受」することであり、信心決定することです。

結局、18願に出るには、教えられた通りにとにかく修善をやっていくしかないのでしょうか?

信心決定(善)を勧められているから、早く雑行雑修自力の心を捨てよと言われたのです。善の勧めとは、信心決定せよということなのです。そういう意味で親鸞聖人の教えに善のすすめはあるのです。

信心決定という「善」を勧められたからと行って、他の善をしなくてよいといわれたのではもちろんありません。それを聞き間違えると悪をしたほうがよいという聞き間違いを起こします。しかし、弥陀の本願の救いを求める人、よこやりさんのような人が、信心決定を求めたから、世に言う善をする気持ちが起きなくなるとは考えにくいことです。

浄土真宗には、「信心決定せよ」という教えはありますが「求道せよ」という教えはありません。「求道してから信心決定する」のなら一念で救われると言うことはありません。現在ただ今の弥陀の救いにあうのに時間はかかりません。
ただ、雑行雑修自力の心を捨てるだけなのです。ただ今弥陀の救いにあってください。

最後に、三世の業障についてですが

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。(御文章5帖目6通・一念に弥陀)

一時に罪消えて、正定聚の位にさだまるという三世の業障とは、一般的には「雑行雑修自力の心」です。結果的に、浄土に往生できると言うことから言えば、「悪も障りにならず」ですが、正定聚にどうやったら入れるかという話ならば、自力の心が廃ってということなのです。

悪をやめる努力が目的となり、善をすることが目的となれば、それは求道が目的となっているのです。いつまで求道をしたいでしょうか?
ただ今の弥陀の救いにあい、信心決定を目的としてください。

三願転入のどこに願力によって進んだと書かれているか?(よこやりさんのコメント)

よこやりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

友人に話していたら、「三願転入の御文に『論主の解義を仰ぎ宗師の勧化によりて』19願20願を通って18願に出た、と書かれてあり、
『願力によって進んだ』とは書かれていない。善知識のお勧めで19願20願を進むのだ。」と言われました。
確かにそのように読める気がします。
どのように解釈すればよいでしょうか?よろしくお願いします。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090223/1235347967#c1235397778

上記質問について回答をいたします。

ご質問の三願転入の御文は、以下の通りです。

ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)

長い御文なので、該当部分を取り上げて解説します。

愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて

この親鸞は、善知識方のお導きによって、19願(万行諸善の仮門)を出て、と言われている部分です。
この部分について

『願力によって進んだ』とは書かれていない。善知識のお勧めで19願20願を進むのだ。」(よこやりさんのコメントより)

と、言われる方があったとのことです。
結論から先に言いますと、この19願に、「20願の世界に出させる」という阿弥陀仏の願力が働いているのです。19願、20願を出たと行ってもそれは、阿弥陀仏の願力によります。
善知識の勧めだけで、19願や20願は進むのでしょうか?


19願も20願も、阿弥陀仏が18願のただ今の救いに会わせるために建てられた願です。十方衆生を相手に、阿弥陀仏がこのようにしてみせると誓われているのです。
十方衆生に対して、このようにしてみなさい、私は何もしませんという願ではありません。
親鸞聖人もご和讃に、阿弥陀仏が19願を建てられた御心をご和讃に

至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける

と書かれています。まことの心で弥陀の浄土に生まれたいと願いを起こさせ(至心発願)すべての人を導く(十方衆生を方便し)というのが、阿弥陀仏の19願の御心であるといわれています。

加えて、阿弥陀仏の救いにあうのに、18願の世界に出るときだけ阿弥陀仏の願力が働くのでしょうか。阿弥陀仏の救いにあうまで、阿弥陀仏の光明(願力)は、すべての人にかかっています。
19願、20願のときは、知識のすすめだけで、進むのは自分自身、18願だけ他力だから阿弥陀仏のお力というものではありません。

私たちで言えば、元の善知識はお釈迦様です。阿弥陀仏と、お釈迦様(善知識)のはたらきによって、弥陀の救いまで導かれるのです。

釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり(高僧和讃)

釈迦と阿弥陀仏は慈悲の父であり、母である。いろいろと方便をされ、私たちに真実信心を獲得する身にさせて下されるのだといわれています。

三願転入で親鸞聖人が阿弥陀仏に救われた体験を告白されているのも、もちろん善知識方のお導きあっての上ですが、導きというのは道案内人のようなものです。実際に私をして引っ張り、真実信心の世界まで押し出して下さっているのは阿弥陀仏の願力ですから、いつも「阿弥陀仏の願力によって」と解説しています。

三願転入の最後に、親鸞聖人が

果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証・化土巻)

といわれているのは、その告白です。果遂の誓いとは、阿弥陀仏の20願のことですが、18願の世界に必ず出させてみせる(果遂)というお約束がまことだったと言われています。
その阿弥陀仏が必ず18願の世界まで出させてみせるという本願が本当だったと言うことは、阿弥陀仏の願力で、18願の世界に出させて頂いたと言うことで、善知識の勧めのみで出たと言うことではないのです。

また、ご不明の点があればコメントをお願いいたします。

三願は、阿弥陀仏の願です(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080817/1218963638#c1219327135

一度、私の善についてまとめたものをベースとして、貴殿の理解されているところを記載願えないでしょうか?

これについてですが、
以前のコメント分から引用しますと

せっかくですので、山も山さんの出されたご和讃で親鸞聖人の教えられた善についてまとめてみましょう。

「如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながら なをもまた
 罪福深く信ぜしめ
 善本修習すぐれたり」
(中略)
18願の救いを求めようと言うところにまで進んでいない人には20願の救い(化土往生)を勧め、そのために念仏を勧めています。
(善本修習すぐれたり)

そこまで進んでいない人には19願の救い(化土往生)を勧め、そのために諸善を勧めています。
(罪福深く信ぜしめ)

まず、19願も、20願も「阿弥陀仏」の願だということは、前回も書きましたが、私は何度読んでも、「阿弥陀仏以外のもの」の願という解説文にしか読めません。

「善本修習すぐれたり」の身の人は、すでに18願の救いを求めている人です。18願の救いを求める心はいつ起きるのでしょうか?19願、20願をすぎて、ようやく起きるように読めますが、それでは「振り返って知らされる」と、自称福徳会員さんが書かれたことと矛盾するように感じます。
振り返って知らされると、元自称福徳会員さんが言われるのなら、その通り、18願真実から、振り返って説明しなければ成らないところです。

また、そのような心が起きるのは、あくまで「阿弥陀仏の願力」によって起こさせられるものです。

「罪福深く信ぜしめ」て下される方は、「善知識」でしょうか、「阿弥陀仏」でしょうか?

それについて、元自称福得会員さんからはコメントで

ただし、ここで言う善智識は真宗(18願を教える)の善智識ではありません。ただし、信後に振り返ってみると阿弥陀仏のお勧めで、阿弥陀仏の本願の働きでやらされていたことと知らされるのです。

浄土真宗の安心問答なのですが、浄土真宗の善知識ではないといわれていますが、回答を書こうとしたところ、どうにも理解ができません。

ただ、「善知識」の定義がどうあっても、上記のご和讃は、「阿弥陀仏」が、罪福深く信ぜしめておられるのです。

貴殿は私の信仰についてとやかく記載されているようですが、それは関係ありません。私の記載は親鸞聖人や蓮如上人の書かれたことを根拠としているからです。

というこでしたが、他力の世界から書かれている文章を、自力の考えを交えて読んでいるようにしか読めないのですが、そのあたりの自覚がおありでしょうか?

前々回のエントリーにも書きましたが、如来の仕事に手を出し、阿弥陀仏の上にたってあれこれ判断するような書き方にしか読めなかったのですが、これは私の読解力の問題なのでしょうか?

「善」と「弥陀の救い」は、「関係ない」ということを、関係づけて書いておられる自覚はないでしょうか?

また「それは自力の心だ」と私が書いた部分については、一貫してコメントに触れておられないのは、意図的なのか、それとも自力の心が、心にかからないから、コメントを書く際に認識に乗らないのでしょうか?

種々気づいたことを書かせていただきました。

追記 疑惑の心は、18願の救いを求める心から起きます。

一旦書いた後、また思うところがあったので、追記として書きます。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながら なをもまた
罪福深く信ぜしめ
善本修習すぐれたり」

真宗の教えは18願の救い(現生不退・報土往生)です。そのためには信ずるひとつであるため、邪魔になる雑業・雑修・自力の心を捨てなさいと教えられます。
(如来の諸智を信じなさい)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080814/1218714993#c1218892654

これについてですが、「如来の諸智を疑惑」するのは、18願の救いを真剣に求める人に出てくる心です。
元自称福徳会員さんが、上記の文章の下の部分に、

18願の救いを求めようと言うところにまで進んでいない人には

そこまで進んでいない人には

というように説明がなされ、19願→20願→18願という順番に書かれていますが、これでは逆になってしまいます。主語が「阿弥陀仏」ではなくなってしまいます。「行者」が主語になってしまいます。

如来の仕事に手出しをするのを自力と言います(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメントを頂き有り難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080814/1218714993#c1218892654

解説をいただきましたが、1点どうにも引っかかるところがあったのでそこについて書きます。

最初に、前回も書きましたが、視点を変えてください。今回も変わっていません。

親鸞聖人や蓮如上人がお手紙を出されたお相手は18願の救いを求めていた人ですので、善の勧めは説かれていません。説かれていませんが、18願の救いを求めている人には19願・20願の働きにより、善や念仏を称えて救いの足しにしようと言う心が起きてきますので、「雑業・雑修・自力の心を捨てなさい」と教えられます。

おそらく上記の元自称福徳会員さんの解説文を読んだら、「そのとおりでないのか」と思われる人が多いでしょうが、私にはとても違和感を感じます。
教義上、完全に間違いという文章ではないのですが、私が引っかかりますのは以下の部分です。

善や念仏を称えて救いの足しにしようと言う心が起きてきますので

本当にそんな心が、元自称福徳会員さんに起きているんでしょうか?
どうにも外から眺めている文章にしか読めません。

「存命のうちに信心決定あれかし」
と蓮如上人が御文章を書かれた相手は、そんな外から眺めている人に書かれたのではありません。

加えて言うと

18願の救いを求めている人

この救いを求めている人の「十八願の救いを求める心」は、その人自身が起こした心のように読めますが如何でしょうか?

さらにひっかかるところを書かせてもらいますと

う〜ん。分かりやすい説明だな〜。

それは貴方が納得したと言うことですね。
それで、何が獲られたのでしょうか?納得した貴方は、それでは今から何を求めて、真実信心獲得の身になろうと思われているのでしょうか?

「雑行・雑修・自力の心は分かった」と安心して座っておれるのなら、それはわが身にかかっていないと言うことを自ら告白しているに過ぎません。

加えて言うと、19願力、20願力の働きは、救われて振り返って知らされることなのです。三願転入の御文はそうだと、以前元自称福徳会員さんの言われたとおりです。

信後振り返って分かることを、救われた体験もない人が語るという心はどんな心でしょうか?
それは、阿弥陀如来の頭の上に立っている心であり、如来の仕事に手出しをしている心なのです。そう言う心を、自力の心というのです。

自分で判断できる、自分は善悪が分かるという心が、強く強くあるのではないでしょうか?阿弥陀仏の本願力や、阿弥陀仏が願を立てられた御心をあれこれ判断できる知恵があるならば、他力廻向の南無阿弥陀仏を阿弥陀仏はつくられません。

何度も書きますが、19願も、20願も、18願も、「阿弥陀仏」の願であって、「私」の願ではありません。
行者が何かしたから助かるという教えなら、他力信心とはいわれません。

そこまで進んでいない人には19願の救い(化土往生)を勧め、そのために諸善を勧めています。
(罪福深く信ぜしめ)

と解説されていますが、誰が誰に勧めているのか、私が読む限りでは、善知識が勧めて行者が自分の力で行っているようにしかよめませんが。いかがでしょうか。


最後に

親鸞会の反社会的な行為を知り、会を辞め、本当の親鸞聖人の教えを求める人は仏縁のある方だと思います。
親鸞会の反社会的な行為を知り、会を辞め、親鸞聖人の教えと縁の切れた方はあまり仏縁のなかった方だと思います。
親鸞会の反社会的な行為を知りながらも会員を続ける方は宿業を感じます。前世からの業でこの世も苦しみ、さらに悪業を重ねて流転していくのでしょう。

どこかの団体に属するか、辞めるかで仏縁を判断する貴方の心境が私にはよく理解できません。

仏縁あるかないかなど、人間があれこれ言えることではありません。そこが、阿弥陀仏の頭の上に立った心だと申し上げたのです。

所属する団体で決まる信なら、それは真実信心ではありません。
所属する団体で妨げられる信なら、それも真実信心ではありません。

加えて団体の経営判断と、真実信心は関係がありません。関係づける心はまた、自力の心です。

具体的な方法論(近道)は、仏法にありません(元自称福徳会員さんへのコメントより)

元自称福徳会員さんへ
コメント頂き有難うございました。
コメント遅くなりすみませんでした。

(全文はこちら)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080726/1217065695#c1218054518

もう一度、親鸞聖人のお言葉を出して親鸞聖人は19願をどのように教えられているのかを原文に沿って忠実に述べた後で、親鸞聖人のお言葉を出して、高森教とのGapを埋めてみてください。

とのことでしたので、これについて回答しようと思いましたが、

19願の軌道に乗せるのが難しいと言うのであれば、どうすれば19願の軌道に乗ることができるか、親鸞聖人は詳しく書かれているはずだよね。どこに書いておられるのでしょうね。場所とすれば三願転入のご文の直前が適切ですよね。きっと、山も山さんが教えてくれますよ。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080726/1217065695#c1218112216

というコメントがその後についていましたので、先にこちらについて回答します。

「三願転入の御文」は、りかちゃんのコメントにもありますように、教行信証化土巻に親鸞聖人が書かれているお言葉です。そんなに大事な御文なら、総序や、信巻に出ているはずだということは、仰言るとおりです。

「三願転入の御文」は、親鸞聖人の体験告白文でありますから、もしこれが一番大事と言うことになると、内容が、万人に共通するような書き方とは言っても、体験告白が一番大事ということになってしまいます。

もちろん、仏法を真剣に求めている人には、どうしても説かれる方や、どんな体験なのかということを知りたいという心がでてきます。そこで、体験を強調する人がいると、その人の話を聞きたいという心が出てきます。

ただ大事なのは「教え」でありますから、親鸞聖人の教行信証は、「教え」が書かれています。
加えて言えば、「体験告白」は、文字通り「体験告白」ですから、親鸞聖人ご自身も体験せられた上で言われているお言葉ですから、信前の求める道中に具体的に自覚しておられたのではありません。

「具体的に19願に乗れる方法がある」なら、それは行者がなにかする具体的なことがあり、その通り実践すれば、19願の軌道に乗れる、やがて救われるというのであれば、我々の自力が間に合うと言うことになります。

以前のエントリーで書きましたが、三願の主語は阿弥陀仏です。親鸞聖人は、「阿弥陀仏の三願で救われた」と言われています。
「親鸞は、阿弥陀仏の三願に説かれているとおりに実践したら、その結果救われた」と言われているのではありません。

何か具体的にしたあのことがあって、その結果救われたとは、教行信証のどこにも書かれていません。
書かれてあるのは、「雑行を棄てて本願に帰す」という一文だけです。
(雑行を棄てさせて下さるのも、主語は阿弥陀仏です。)

教行信証総序には
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ」
と書かれています。

「他力の救済」にあったということは、「行者の具体的な行動」とは無関係な信心ですから、「たまたま」としか言いようがないのです。
「噫弘誓の強縁は多生にも値がたく」といわれていても、
「どうやってその弘誓の強縁にあわれたのですか?」と聞いてみても
「たまたま」であり「遠く宿縁を喜ばずにおれない」と書かれているのです。

以前のエントリーでも「真剣に求めよ」とは書きましたが、具体的に○○しなければ救われないとは書かなかったのはそのためです。

具体的な方法論が本当にあるというのは、近道があるということであり、それを秘密の法文と、善鸞は言い始めたのです。
そんなものは浄土真宗にありません。

元自称福徳会員さんの2つめの質問について

元自称福徳会員さんへ

2つめの質問についてお答えいたします。

次に、19願の善(破邪顕正・財施)を実行するにあたり、その心がけを「方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と取り組みなさい、と教えています。「方便と思わずに」と言うのであればなぜ、「方便と思わずに真剣に善をやって化土往生できるかどうかやってみなさい」と教えないのでしょうか?親鸞聖人は19願を教えられているところでは善を行い化土往生することを勧めておられます。ただし、これは18願を求めている人・真宗の人に勧めていることではないと私は解釈しています。さすがに親鸞会では「化土往生できるかどうかやってみなさい」と勧めては真宗にならないので「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と勧めているのでしょう。阿弥陀仏も親鸞聖人も「19願の目的は化土往生」と教えられているのに親鸞会では「19願の目的は善ができるかどうか真剣にやってみること」になっています。これは本来、真宗では捨てるべき19願を引っ張り出して破邪顕正・財施を勧めていることから来る矛盾でしょう。しかし、矛盾と感じる心に対し「未信のものは方便が分かるはずがないのだから、つべこべ言うな」と言うことのようです。
以上が2点目です。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080714/1216031356#c

まず、このお尋ねについて、誰を対象にいっているのかと言うことを明確にしないといけません。

「方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と取り組みなさい

このように言うときの相手は、「我々に善などできるものではない」と、いわゆる造悪無碍の異安心や、それに近い考えをしている人に対して言っているのです。

真宗の多くの道俗は、死んだらお助けというような、または、他力と言うから簡単に助けて下されるのだろう。何かするのは計らいだからいっそ何もしない方がいい。と、他力を聞き間違えてそのように思う人が多くあります。

また、仏法を求めている人でも、前回のエントリーに書きましたが、19願の善を勧められた相手というのは、「発菩提心 修諸功徳」と19願に誓われているように、真剣に弥陀の救いを求めている人(発菩提心)、頭燃をはらうような気持ちで、真剣に求めている人に言われているのでありますから、「どうせ方便だから捨てものなのだろう」という気持ちには、19願の行者はなりません。

19願の行者でもないのに、自分はもう19願の軌道に乗っている、20願の行者でないかというように勝手に思っている人に対して
「方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」というのです。

その意味は、「つべこべ言うな」という意味ではありません。
「体にかけて法を求めよ」という意味であります。

一方この「体にかけて法を求めよ」というのも、本来の意味は、「真剣に弥陀の救いを求めよ」「平生の一念の救いを真剣に求めよ」という意味なのですが、「体の行い、口の行いを、一生懸命とにかく、心はともかく動かせ」という意味だと思っている人も多いようです。

あくまで「信を獲よう」「いま弥陀の救いを求めよう」という心があった上での、善だということを知っていなければなりません。

その心がなくても、体にかけて善さえすれば真実が知らされるというのであれば、実践倫理の人はかなり体にかけて良いことをしています。そう言う人たちは、それこそ真剣に善に励んでいます。「善ができるかどうか真剣にやっている」のですから、知らされるものがあったのではないでしょうか。

また、そういう人の中には「実践倫理で善のできがたい自分を知らされて仏法を聞くようになった」という人もあります。
こういう人は、「善のできない自分」と知らされたわけですが、それと、「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」は、本来の意味から言えば違います。

ただ、「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」という言い方には、いっている人がもし、
「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」というのは
「やれば善のできない自分と知らされ、その時救われる」と思っていっているのなら、それは間違いです。

善をやって(因)、善のできない自分が知らされ、救われた(結果)と言えば、
自力の善(因)から、他力がでたと言うことになり、浄土真宗にはなりません。

ですから

親鸞会では「19願の目的は善ができるかどうか真剣にやってみること」になっています。

こう思っている人がいるかも知れませんが、そうではありません。

弥陀の救いを真剣に求める心になった人に、勧められているのが19願の善です。
そこまで、教えを真剣に聞き、真剣に弥陀の救いを求めなければ、その心にはなりません。

前回のエントリーに紹介した山口善太郎さんのような心は、文字で読んで
「そんな心になるんだろうなぁ」と思っているのは、観念の遊技で、その心に実際なった山口善太郎さんは「泣いて甲斐なきことなれど、方角立たずに泣くばかり」と言われています。

「観念の遊技ではない」というのは、実際にその身になった人でなければ言えない言葉ではあります。
法座の会場でも、のんびり座って聞いているのは、体にかかっていないのです。真剣に求める心になれば、どこかに教える知識はないかと、探さずにおれません。聞かずにおれない気持ちになるものです。

そこを水際たてて説かれる人はなかなかおられないので
「真の知識にあうことは かたきがなかになお難し」と言われています。

三願転入のお話を聞けば、現在仏法を聞いている自分はもう19願と思っている人も多いでしょうが、少し前のエントリーで「19願の入り口にも乗っていない」という言い方は、そういう意味なのです。

親鸞会で仏法を聞いている人の中で、19願の行者のように、それこそ真剣に弥陀の救いを求めている人は確かにおられます。

ただ、そこはいつの時代でも、どこの国でも決して多くはないのです。
「国に一人、郡に一人」と言われたり、「易往而無人」とお釈迦様が言われるのは、決して誇張ではありません。「極難信」とか「難信の法」と言われるのも、それだけ求めぬく人がなかなかおられないからです。

阿弥陀仏の兆載永劫のご苦労は、それだけ「信ずることもなおかたし」だからです。

「つべこべ言うな」と私は言いません。真剣になるまで、真剣に求めよと、信を求めよという以外にありません。その上での疑問はいくらでも言ってくださればありがたく思います。

このブログも、何人かの方が訪問してくださっているようですが、元自称福徳会員さんに限らず、教義上のご不審、信仰上のお尋ねがありましたら、いつでもコメントを頂ければできる範囲でお答えいたします。

生きているのはこの真実信心を獲得する為であり、浄土往生の身にさせていただくことなのです。