安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

2012-02-01から1ヶ月間の記事一覧

聴聞をするときの心がけはありますか。例え話にはよくわかるのですが、自分の問題にならずにいます。(名無しさんのコメントより)

親鸞会ブログポータル・ナビにコメントを頂きました。気がつくのが遅くなり申し訳ございませんでした。 聴聞をするときの心がけはありますか。例え話にはよくわかるのですが、自分の問題にならずにいます。 名無しさん|[問答]信心決定する前兆がないとすれ…

二種深信の「自己の三世がわかる」というのは、会員さん自身が「今の前の生は○○であって、どんな生を受けていた。その前は○○であって、このような一生を送った、そのまた前は……」ということなのでしょうか?(会員さんのコメント外多数のコメントより)

会員さん、それ以外に多数の方よりコメントを頂き有り難うございました。 会員 2012/02/24 20:58 (中略) 敢えて根拠を挙げなければいけない、ということであれば、既に挙げてくださっている善導大師の二種深信のご文となりますが、ただそのご文の解釈に、…

二種深信は「地獄一定と極楽一定の自己が知らされる。」「三世があることを知らされる。」「だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる。」(会員さんのコメントより)

会員さんからコメントを頂きました。また、会員さんのコメントについて複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。会員さんのコメントから、以下引用します。 会員 2012/02/24 01:35 (略) 阿弥陀仏の智慧と慈悲の結集である六字の名号をい…

「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」と言ってしまった浄土真宗親鸞会高森顕徹会長(2月19日テレビ座談会に参加した方の情報より)

2012年2月19日親鸞会主催の「なぜ生きるについてのテレビ座談会」が、各地で行われました。飛雲にも書かれていますが、「雪で中止」というのは、私が過去親鸞会にいた頃には聞いたことがない理由です。 よく考えて見ると、テレビ座談会ができるように…

私は今まで「信の一念」は驚天動地の体験は無いにしても何らかの自覚はあるものだと思っていました。でも大事なのは一念の体験がどうのこうのより「今、本願を疑い無く聞いている」ことだと理解しました。

私は今まで「信の一念」は驚天動地の体験は無いにしても何らかの自覚はあるものだと思っていました。でも大事なのは一念の体験がどうのこうのより「今、本願を疑い無く聞いている」ことだと理解しました。(頂いたメールより) 私も含めて親鸞会にいた人は「…

信心決定する前兆がないとすれば、いつ救われるのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定する前兆がないとすれば、いつ救われるのでしょうか?(頂いた質問) いつ救われるのかと言えば、ただ今のことです。 「いつですか?」という問いは、とても真面目な問いですが、言葉の中には「今は救われていないけれども」という前提条件がついて…

救われる前には、何か兆しのようなものが身心におきるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われようと思ってはいるのですが、心理的には大した変化もありません。やはり、救われる前には、何か兆しのようなものが身心におきるのでしょうか?(頂いた質問) 兆しのようなものがあらわれてから救われるという考えは間違いです。 そのよう…

救われる前には、何か兆しのようなものが身心におきるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われようと思ってはいるのですが、心理的には大した変化もありません。やはり、救われる前には、何か兆しのようなものが身心におきるのでしょうか?(頂いた質問) 兆しのようなものがあらわれてから救われるという考えは間違いです。 そのよう…

教義や組織に疑問を持ちながら親鸞会会員が富山の親鸞会館へ足を運ぶたった1つの理由

私が親鸞会にいた頃を振り返って、どうしてあれほど高森顕徹会長の法話に足を運び続けていたのかを考えて見ました。 結論から言いますとそのたった1つの理由は、高森会長の話の意図は終始一貫して「富山へ来い。ワシの所へ来い」だったからです。それ以前に…

前回に追記:歓喜について

信心決定した上に喜ぶ心があるのは間違いないことですが、「喜べないような信心は間違いだ」というように、「喜べたかどうか」を「信心の有無」の判定基準のように考えるのは間違いです。信心はあくまで「本願を聞いて疑う心のない」無疑心であって、信心=…

阿弥陀仏に救われたら喜ばずにおれないものだと思います。一念で大慶喜が起きなければ救われたとは言えないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われたら喜ばずにおれないものだと思います。一念で大慶喜が起きなければ救われたとは言えないのでしょうか?(頂いた質問) 阿弥陀仏に救われたならば喜びの心は起きますが、天に踊り地に踊る喜びがどんな人にも救われた一念に起きるという考え…

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその6:異義「お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。」

二河白道の喩えについては、今回で一旦終了します。 異義その6 愚禿鈔に阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の「直」の言葉を「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめん…

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその5:異義「愚禿鈔に白道を『白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。』と言われているから、白道は自力要門である」

異義その5 愚禿鈔に白道を「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」と言われている。これは、白道が、その人によっては白路(自力)になるといわれているのではないでしょうか? 回答 愚禿鈔にあるご文は以下のものです…

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその4:異義「解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されているから、白道は要門だ」

異義その4 群賊が旅人にむかって「帰ってこい」と呼び止めるのは、二河白道の喩えではお釈迦様が「この道を往け」と言った後に言っていることになっている。しかし、そのあとの解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊…